プレイヤーキャラクターとプレイヤー体験 茂内克彦

ボノボのカンジ

  • ミズパックマン」をプレイするボノボノ。
  • パワーのエサのルールを理解しているかは不明だが、パックマン(操作できるキャラクター)と他のキャラクター(操作できないキャラクター)の区別はできている。
  • つまり、パックマンを自分が操作していると理解している。
  • なぜ、我々はカンジが「パックマン」をプレイできることに驚くのか?
  • 人間以外の存在が、架空のキャラクターに"移入"しているから。
  • しかし彼は、パックマンを自分の化身だと思っているのだろうか。それとも木の棒のような、ただの道具だと思っているのだろうか。映像からでは判別できない。

プレイヤーキャラクター(PC)とは

  • ゲーム内世界のプレイヤーの化身。アバターと呼ばれることもある。
  • プレイヤーが(ある程度まで)操作することができる。
  • 「主人公」は物語の中心人物のことであり、PCという概念とは異なる。PCが主人公になることもあれば、そうでない場合もある。しかし、一般的にはPCと主人公は混同されている。

PCの機能

  • 化身:ゲーム世界におけるプレイヤーの代理。プレイヤーが物語りに参加するために必要
     →物語上の要請
  • 道具:ヒューマンインターフェイス。プレイヤーがゲームに参加するために必要
     →ゲームデザイン上の要請

ゲームデザインとしてのPC:メタファ

  • メタファ(比喩)
  • コンピュータでは、抽象的な概念を、理解しやすいように既知の具体的な概念で表現する
  • メタファ:GUI、デスクトップメタファ
    「ウィンドウ」「ファイル」「フォルダ」「デスクトップ」「ごみ箱」
  • GUIテレビゲームは、すべてがメタファ
  • PCはゲームデザイン的には、人間(など)のメタファであるといえる。アクションを想起しやすい。一種のアフォーダンス的効果。

物語表現としてのPC:「あなたが主人公」言説

  • 「テレビの中のマリオはあなたです」(「スーパーマリオブラザーズ」取扱説明書)
  • 「そう、伝説の勇者ロトの血を引く者、それが、あなたです」(「ドラゴンクエスト」取扱説明書)
     →新しいメディアであるテレビゲームを説明するのに便利なキャッチフレーズ

物語表現としてのPC:堀井雄二の「プレイヤー=PC」主義

  • 「僕は『ドラクエ』の場合、枷を付けてるんですね。主人公はプレイヤーの分身だからプレイヤーの思惑通りにしか動かないと」
  • 堀井主義:
    • PCにはプレイヤーの名前をつける
    • PCは発話しない(はい/いいえの選択のみ)
    • 「いっぽうそのころ」の禁止
       →説明書の記載や堀井主義などにより、「プレイヤー=PC」という"常識"が形成される。
      さらに、「RPG=役割を演じるゲーム」という文字通りの解釈が広まる

物語表現としてのPC:RPGという呼称と、堀井主義の影響

  • プレイヤーの典型的反応:
    • このFF8をプレイしてみると、はっきし言ってキャラクターを動かしている次官よりもイベントで勝手に動いている次官のほうが長いのだ。そのため文章を読んでボタンを押す、の繰り返しになる。これはキャラクターを動かして仮想世界を冒険するRPGとはかけは慣れており、RPGにする必要はまったくないのだ。
    • RPGは本来役割を演じるゲームではなかったか? 私の場合、FF8というゲームの中で「役割を演じる事」を見失った事が多々あった。RPGにおいて大切なのは、「主人公」という役割を気持ち良く演じる事ができるかどうかにかかっているのだと思うのだが。(引用)

実際は、PC=プレイヤーではない

  • プレイヤーは現実世界の人間であり、ゲームで描かれるのはPCで、まったく別の存在
  • そもそも、「役割を演じる=プレイヤー自身の好き勝手にできる」ではない。
  • ゲームにあらかじめ記述されたシナリオを有するなら、プレイヤーが自由にPCを操作することはありえない、
  • PCが勝手に動いてつまらないのは、演出の良し悪しや好みの問題。

PCとプレイヤーの関係

  • 堀井雄二「プレイヤー=PC」主義の例
    • ドラクエ1」:エンディングでのみ、PCは発話する
       しかし [勇者]は いいました。
       「いいえ。わたしの おさめる くにが あるなら それはわたしじしんで さがしたいのです」
       →操作不能:PCのプレイヤーからの自立→エンディング
  • ポートピア連続殺人事件」:半PC的な存在:ヤス
  • ヤスに命令するというゲームシステムを利用した結末
  • プレイヤーはヤス(=ヒューマンインターフェイス)を通してしかインタラクションできない
  • ヤスがPC的役割を終え、プレイヤーにとって完全な他者になる(自律する)と、操作不可能になり、エンディングとなる
     →「ドラクエ1」と同じ構造

だが、堀井主義がテレビゲームのすべてなのだろうか?

  • 堀井主義はある程度有効だが、我々にはすでに映画や小説のような、他のメディア体験がある
  • 他のメディアは、一人称的な視点にこだわらず、むしろ一人称を超えた視点を利用することも多い。
  • テレビゲームもまた、そうでありうる
  • PCのありようもまた、多様である

堀井主義を超えて PC表現の多様性

  • PC表現は、顕在型・潜在型・不在型の3つに分類することが可能
  1. 顕在型(可視のPC)
  2. 潜在型(不可視だが、疎家財するPC)
  3. 不在型(PCは存在しない)

1,PC顕在型

可視のPC

2,PC潜在型

不可視だが、存在するPC

3,PC不在型

PCは存在しない
  • カメラの前にも手前にも、ゲーム内世界にPCはいない。PC敵存在は、モニターの前にいるプレイヤー自身がPC的役割。「ファミリーベーシック」「ノエル」「オペレーターズサイド」
     不在と潜在は、映像表現だけでは同じに見える。設定の問題。

複数PC表現

複数のPC

堀井主義を超えて PC表現の多様性

  • 複数PCを用いた、多様な視点による立体的な物語描写
  • 「神の視点」による物語の俯瞰......PCしか視点人物になれないわけではない
  • ビデオゲームは、一人称的PCと、超越者的視点(いわゆる「神の視点」)を複合的に利用できる

多様な視点によるテレビゲーム表現

  1. PC:メビウス1(パイロット)
  2. サイドストーリー視点人物:少年
    (サイドストーリーの主人公:黄色の13(メビウス01の敵のパイロット))
  3. 無線演出で表現される無名の登場人物たち

「AC04」での見る存在・見られる存在

  • PCメビウス1は、戦場を見る
  • 少年は、黄色の13を見る
  • 無線演出の人々は、戦場の別の側面、そしてメビウス1を見る
  • これらの複数の視点を通じて、プレイヤーは立体的に世界を見るというゲーム表現

メビウス1は一切しゃべらず、仲間もいない(無色の狂言回し)。それに対し黄色の13は深く描写されている 

「AC04」の無線演出

  1. 戦場のリアリティを醸し出す演出として機能する
    (省略)
    ※プレイヤーのゲームプレイとまったく関係がない。見たからといって、ゲーム進行が有利になることはない
  2. テレビ中継による、実際の戦場の実況中継のような効果
    (省略)
  3. 敵の視点を得る
    (省略)
    ※無線演出のほとんどは、PCへの語りかけではない。飛び交う無線を、プレイヤーはPCの立場と関係なく、耳にすることができる。
  4. 並行したストーリーを同時に描く
    (省略)
  5. PCメビウス1を見る視点
    ※プレイヤーは、自分が褒められているようでうれしい。ただし、直接的なメビウス1・プレイヤーへの語りかけによる賛辞・畏怖の表明ではないところが巧妙。

PCは、見られる存在である

  • 「AC04」:プレイヤーは複数の話者の語りを聞くことにより、さまざまな視点から世界を見る。
  • さらに、無線演出で、プレイヤーは、過去のPCの動きを楽しむ。
  • 見られるPC:
    • リプレイ機能搭載のゲーム:過去のPCの動きを楽しむ
    • リアルタイムでPCを鑑賞するゲーム:「デビルメイクライ」(沢月2001の議論)
    • 「AC04」は、他者の視点を借りて、プレイヤーはPCを眺める。

見られるPC、見られるプレイヤー

  • コンピューターによって見られ、評価される...ギャルゲー等(NPCからの直接的な好意の表明として表現される)
  • 他の人間によって見られ、評価される...アーケードゲーム、オンラインゲーム(→プレイヤー圏の議論)

プレイヤーの立場の錯誤

  • 「AC04」でプレイヤーは、PCが聞けるはずのない無線通信を超越的立場で聞ける。すなわち、プレイヤー=PCではないことになる
  • 一方、プレイヤーは、無線によるPCへの賛辞や畏怖を、PC的立場で受け取ることができる。
  • しかし、この矛盾は認識されない。立場の錯誤はむしろ効果的に機能する
  • プレイヤーはその時々に応じて、都合よく自分の立場を置き換えることができる存在。

プレイヤーのテレビゲーム体験

  • プレイヤーは、PCのロールプレイをしているつもりになっていても、実際は複数の立場を同時に、または交互に体験している。
  • そこから生まれる複雑な認識の体系、あるいはその錯誤が、現在のテレビゲーム体験を豊かなものにしているといえる。