プレイヤーキャラクターとプレイヤー体験 茂内克彦
ボノボのカンジ
プレイヤーキャラクター(PC)とは
- ゲーム内世界のプレイヤーの化身。アバターと呼ばれることもある。
- プレイヤーが(ある程度まで)操作することができる。
- 「主人公」は物語の中心人物のことであり、PCという概念とは異なる。PCが主人公になることもあれば、そうでない場合もある。しかし、一般的にはPCと主人公は混同されている。
PCの機能
ゲームデザインとしてのPC:メタファ
物語表現としてのPC:「あなたが主人公」言説
- 「テレビの中のマリオはあなたです」(「スーパーマリオブラザーズ」取扱説明書)
- 「そう、伝説の勇者ロトの血を引く者、それが、あなたです」(「ドラゴンクエスト」取扱説明書)
→新しいメディアであるテレビゲームを説明するのに便利なキャッチフレーズ
物語表現としてのPC:堀井雄二の「プレイヤー=PC」主義
物語表現としてのPC:RPGという呼称と、堀井主義の影響
実際は、PC=プレイヤーではない
- プレイヤーは現実世界の人間であり、ゲームで描かれるのはPCで、まったく別の存在
- そもそも、「役割を演じる=プレイヤー自身の好き勝手にできる」ではない。
- ゲームにあらかじめ記述されたシナリオを有するなら、プレイヤーが自由にPCを操作することはありえない、
- PCが勝手に動いてつまらないのは、演出の良し悪しや好みの問題。
PCとプレイヤーの関係
だが、堀井主義がテレビゲームのすべてなのだろうか?
- 堀井主義はある程度有効だが、我々にはすでに映画や小説のような、他のメディア体験がある
- 他のメディアは、一人称的な視点にこだわらず、むしろ一人称を超えた視点を利用することも多い。
- テレビゲームもまた、そうでありうる
- PCのありようもまた、多様である
堀井主義を超えて PC表現の多様性
- PC表現は、顕在型・潜在型・不在型の3つに分類することが可能
- 顕在型(可視のPC)
- 潜在型(不可視だが、疎家財するPC)
- 不在型(PCは存在しない)
1,PC顕在型
可視のPC
- PCが画面に表示されている。オーソドックスなパターン。
「スペースインベーター」「パックマン」「ゼビウス」「スーパーマリオブラザーズ」「ファイナルファンタジー」シリーズ「ドラゴンクエスト」の移動シーン。
旧来のゲームでは3D視点を実現しづらかったため、このタイプが多い。
2,PC潜在型
3,PC不在型
PCは存在しない
- カメラの前にも手前にも、ゲーム内世界にPCはいない。PC敵存在は、モニターの前にいるプレイヤー自身がPC的役割。「ファミリーベーシック」「ノエル」「オペレーターズサイド」
不在と潜在は、映像表現だけでは同じに見える。設定の問題。
堀井主義を超えて PC表現の多様性
- 複数PCを用いた、多様な視点による立体的な物語描写
- 「神の視点」による物語の俯瞰......PCしか視点人物になれないわけではない
- ビデオゲームは、一人称的PCと、超越者的視点(いわゆる「神の視点」)を複合的に利用できる
多様な視点によるテレビゲーム表現
- 「エースコンバット04」の多様な視点
「AC04」での見る存在・見られる存在
「AC04」の無線演出
PCは、見られる存在である
- 「AC04」:プレイヤーは複数の話者の語りを聞くことにより、さまざまな視点から世界を見る。
- さらに、無線演出で、プレイヤーは、過去のPCの動きを楽しむ。
- 見られるPC:
- リプレイ機能搭載のゲーム:過去のPCの動きを楽しむ
- リアルタイムでPCを鑑賞するゲーム:「デビルメイクライ」(沢月2001の議論)
- 「AC04」は、他者の視点を借りて、プレイヤーはPCを眺める。
見られるPC、見られるプレイヤー
プレイヤーの立場の錯誤
- 「AC04」でプレイヤーは、PCが聞けるはずのない無線通信を超越的立場で聞ける。すなわち、プレイヤー=PCではないことになる
- 一方、プレイヤーは、無線によるPCへの賛辞や畏怖を、PC的立場で受け取ることができる。
- しかし、この矛盾は認識されない。立場の錯誤はむしろ効果的に機能する
- プレイヤーはその時々に応じて、都合よく自分の立場を置き換えることができる存在。
プレイヤーのテレビゲーム体験
- プレイヤーは、PCのロールプレイをしているつもりになっていても、実際は複数の立場を同時に、または交互に体験している。
- そこから生まれる複雑な認識の体系、あるいはその錯誤が、現在のテレビゲーム体験を豊かなものにしているといえる。