終わりのない篭城戦

 早朝、車を走らせていたら道路の中央線付近で猫の死体を見かけました。すぐ脇にカラスが一匹とまっていました。内臓が飛び出したその死体を見て、「ああ、可哀想だなぁ、酷いなぁ」と思います。そして家に帰り、僕は自分の家で飼っているペットの猫に餌をあげ、可愛がるのです。
 昨今の女児に対する暴行事件や強制わいせつ事件。連日種を変え品を変えてワイドショーで取り上げられています。とても可哀想だし、酷いことをする人がいるものだと思います。そして番組が終わると僕は、どうサバを読んでもランドセルを背負っている年齢にしか見えないのに18歳以上だと言い張る女の子をヒロインに据えたエロゲーを起動し、プレイするのです。
 醜く残酷な現実の世界と、美しくきれいな僕の世界。現実の世界を見聞きし理解することはできても、僕の世界に影響し、干渉することはありません。インターネットが発達し、受け取れる情報が膨大になったことが、かえって荒波に鍛えられるように個の世界を隔てる城壁を強固にしている気がします。怒涛のように押し寄せる醜く残酷な現実の世界に関する情報は、堅い城壁に阻まれ、坩堝のように降り注ぐ僕の世界をより美しくきれいにする情報は、遮られることなくとめどなく入り込んで僕の世界を充実させます。
 しかしほんとうは、この世界の醜く残酷な現実は、人それぞれの美しくきれいな世界を、人それぞれがより良くしようと思う独善心の衝突によって発生する摩擦によって、形作られているのです。人は自らの世界を美しくきれいで保たせたいがために、醜い残酷な行いをして、そのことを悔いる気持ちさえ自らの世界の美しさ・きれいさを引き立てる演出として受け入れるのです。
 そして、城壁が鍛え上げられ、強固になればなるほど逆説的に自分の世界の重要性と価値は高まり、何かの拍子にその城壁が突破され、醜く残酷な現実が自らの潔癖な世界を侵略すること、その気配を感じ取ると、その人は剥き出しの攻撃性を露にします。
 「終わりのない篭城戦」。なにしろ攻める方も守る方も篭城しているのですから、戦いが終わるわけがありません。しかしその実、同盟関係や親善使節という形で訪れた城主にすら容易に刃を向けることが日常茶飯事となっているので、終わるときは拍子抜けすぎるほど簡単に終わります。無分別な攻撃性は、篭城戦なればこその必死さでしょうか。
 よく考えてみれば、どこかの国が核兵器のボタンをちょこっと押せば、それで醜く残酷な現実の世界も人が篭る城ごと消滅するわけで、美しくきれいな僕の世界が維持されたまま逝くことができるのだとしたら、それはそれで幸せな結末なのかもしれません。翻って、幸せじゃない結末とは、車道に猫の死体を見かけると自分の飼っている猫が気持ち悪く思えてくる、ワイドショーで女児に対する暴行事件や強制わいせつ事件を知ってしまうとエロゲーに吐き気を覚えてしまう、そうならざるを得ないような、現実と自分の世界が混濁した真理の開城なのでしょうか。
 と。不毛で根拠の無い抽象論を書いてしまいました。もっと何か書けそうな気がするけれど、お腹が空いてきたのでもうやめることにしますよ。