貴女を想うこの気持ち、身と心のどっちがイニシアティブ?

 「まんがタイムきらら」連載「たるとミックス!」(神崎りゅう子)は、定期的に魂が入れ替わる、退魔の力がどうとかいう双子の兄妹が主人公の4コママンガです。その6月号が、妹の体に乗り移った(?)兄が男に恋わずらいを起こしててんやわんやというネタだったのですが。
 作品的にいろいろ設定があるんだろうけど、恋は心でするものなのか、体でするものなのか、ちょっと不思議に思ってしまいました。
 そもそも同性愛ってのがあって、それは病気ではないのだから、"体のしくみ"の構造的宿命が恋愛感情をつかさどるわけがないと思います。「好きになった人がたまたま同性だった」というフレーズは、恋愛至上主義の精髄ですからね。
 でも、もし自分(男)の体が女の体に変わってしまって、女性ホルモンとか分泌されて、男ではない、そして男と結合すべく構造された女の体と、精神的に同一性を取ることが自らの生存にとっ不可欠だというのならば。男の心のまま女の体として女を欲するより、体のみならず心も女にしてありのまま男を求めるほうが、より自然な姿なのではないかと思ってしまうかもしれません。
 恋愛はやはり自分にとって自然な状態ややり方でないと成り立たないものでしょうから。
 どうして僕は女が好きなのか。「それは僕が男だからだ」という以外の回答を僕は持ち得ない。
 そもそも僕が男なのはどうしてか。「それは体が男だからだ」という以外の回答を僕は持ち得ない。
 僕は心から男だ、心から女が好きなのだ、といえるほど自分が男であるという事に自信はないし、自分の精神が惰弱であるという事に自信はあるし、そもそも自信があろうがなかろうが、この世に生れ落ちたときに自分が男か女か認識している赤ん坊はいないだろうから、心から男だ/女よという話は根本的に胡散臭い気もします。
 それでも自信があるというのならば、それは人一倍、性に関する社会文化の"思惑"に敏感で従順な人ということなのでしょう。それに馴染めないことのストレスを裏返した反抗心として、同性愛があるのだとしたら、その反抗心を個性の一つとして承認しようという社会の方向性は、ちょっぴり自虐的ですね。
 恋愛という現象は、身体的遺伝的に運命づけられた(深刻な欲望としてどうにもならない)"男女結合"というものの在り様に対する、知的生命体としての人間(心)の矜持が作り出した"詮なきこじつけ"なのでしょうか。それとも、「異性であれば誰と結びついても良い、ともかく質より量だ!」という遺伝的思惑を覆し、原初的な部分(体)を支配している高度で優秀な人間というものの存在証明として、履歴書記載事項として、恋愛があり、思想をもつということなのでしょうか。
 それにしては、まあ、過去も現在も多くの、恋愛を踏み外した者は誰彼構わず犯し、思想を踏み外した者は誰彼構わず殺しているわけで。支配力を示すはずがかえって「人間など成り上がりの動物に過ぎない」ということを、あられもなく断定しています。「書道6級」を履歴書に記載したら面接官に「大した事ないですね」と言われてしまうようなものでしょうか。
 体と心を乖離させ、かつ結びつける、恋愛という矛盾的整合性。"根拠なき"仮説の僕を検証するためのフィールドワーク。どうせなら、DNAの塩基配列、個性をつかさどる部分に結合すべき異性が物理的に既定されていて、その相手が近づくと、心臓がドキドキしたり顔が上気したり、不随意的に勃起してしまうそれを恋愛とするのなら、人間はもっと生きやすかったでしょうね(アレの大きい人は歩きづらくて大変でしょうけど←他人事)。
 あるいは、既定外の異性と結合しようとすると、まるで同性としようとするかのように違和感を感じてしまうようになっていたら、人間はもっと幸せになれたでしょうね。
 でもそれはすごくつまらないかも、と思ってしまう時点で、人間に楽園は築けないなと確信してしまいますね。