郵便事業の落ち込みに見るネット社会の光と影

 僕はね、つくづく思うんですよ。わざわざダイレクトメールを送って人に購入を促すような商品に、そもそもろくなものはないんじゃないかって。
 本当に良い商品、価値のある商品は、広告費や人件費を極限まで抑えてその分を商品開発や低価格化努力に注ぐことで、初めて誕生するものだろうから、そもそもダイレクトメールをバラ撒くような余裕はないはずなんです。その余裕があるということは、むしろ消費者としては、「広告費を吸収できるくらいに商品価格が高いのではないのか」、という疑いをもってしまいます。
 インターネットが国民の62%に普及している今日、消費者はネットで、自分の欲しいものを自分で調べて自分で注文して入手しています。でもそれはある意味錯覚で、ネット上の口コミ情報などを自発的に集めて、自分で分析して良い商品を購入している(と消費者は思っている)その一連の購買過程自体が、実はネット的な広告作用の一環なのです。
 ネット上に言葉を持っているすべての市民が、商品や企業にとってのごく零細な広告塔と化しています。
 そこで企業は、極めて漠然としたインターネットというイメージ世界のなかで、消費者という個人広告主に、「自発的で自由な意思のもとで購入し、自律的に評価している」と思わせていられるギリギリのライン内の作為性(強引さ)で、商品を宣伝し、購買へと誘導していかなければなりません。ネット上で連帯する個人広告主の共同意識に、形もなければ宛先も記載されていないダイレクトメールを、巧みにさりげなく送り付けていかなければならないのです。
 消費者は、イメージであるインターネットを通して、イメージとしての商品を購入する時代。だからこそ、ダイレクトメールもイメージになっていく。ただ、イメージのダイレクトメールに切手は貼らなくてもいいから、郵便事業はお先真っ暗。扱うのは携帯の請求書か納税通知書かサラ金の勧誘か怪しげな架空請求書ばかりです。単純に、手紙が電子メールに取って代わられたから郵便収益が落ち込んでいるというわけではないような気がするのです。
 郵便物はあまりにも即物的(現実的)すぎるということ。ネット社会の普及によってますます人々は、イメージという刹那的なやさしさにすがりつき、気楽で希薄なつながりの都合良さに馴染み、まどろっこしい現実から逃れていく、または逃れていきたい人々にとって、ポストに入ってやってくるダイレクトメールは、何がなんでも根本から疑ってやりたい現実というものの象徴に思えてしまいます。
 手軽で便利な電子メールが手紙に取って代わったからだといわれるけれど、電子メールが普及する以前、今日人々が電子メールで伝える内容を、手紙で伝えてきたかというと決してそんなことはありません。手紙はあくまで手紙であり、手紙で伝えるべき内容と、電子メールで伝えるべき内容はその大部分が重複せず、むしろ、電子メールという新しい通信手段の発明にともなって、それに載せるべき独自のメディアがまったく新しく誕生したと見るべきではないでしょうか。
 それはともかく、肌身感覚としては、フォントやデザインの統一された電子メールに触れることで、フォントやデザインを一から考えなければならない手紙というものを書き送るのが億劫になってしまった。手紙という通信手段の衰退。それは、かつてPHSから携帯電話にシフトしていったのとは本質的に異なります。
 電子メールソフトによって定型化され統一されたイメージが、手紙の本来もっている、個性の拠りどころとなるべき豊かなイメージを駆逐しているのです。定型イメージによる文化支配(もしくは放逐)は、本来あるべき創造的なイメージの廃絶へと繋がっていきます。
 ネット上でしばしば沸き起こる言い争い、言葉による暴力は、言葉に文化が備わっていないからだともいえます。定型化によってイメージが蓋がれているから、言葉は何も着ていない、そこには"何もない"。それがときに真空の刃となって読み手を傷つけてしまうのです。
 これが例えば、最近年配の方たちの間で流行っている絵手紙に、墨汁でどんな暴力的な言葉が書かれていても、それは読み手を傷つけてしまう前に、読み手にじわじわと広がっていく(本来的な)イメージによって、文化によって、その刃はしなやかに懐柔されてしまうのではないでしょうか。
 人は互いに違いがあるからこそ正常に付き合っていけるのであって、人にまったく違いがなかったら、きっと上手く付き合っていけないのではないかと、なんとなく思います。かと思えば、やれ民族だの国家だの人種だのといって、無理やり違いを見つけて争い続けているのは、自らとは異質な存在に恐怖し、排除したいという防衛本能が誤作動を起こしているからだとも思います。
 ヒトという種としての同一性を基盤に、個性の違いを認め、文化の違いを尊重しあうことが、理想論的な意味での相互理解、平和というものなのかもしれません。
 個性が違うから分かりあえる、文化が違うから尊重しあえる。そうだとしたら、個性はなく文化もなく、まったく同一の無色なイメージ上でやりとりされる、均質なネット環境を基盤に成り立つネット社会の、電子メールに代表される通信メディアは、人が互いに分かり合おうとするのに非常に不向きな方法なのではないかと思ってしまいます。定型社会の中であればこそ、表現内容上の些細な違和感が異質さとして際立ってしまい、むしろ防衛本能を起こしやすくしてしまうのではないかとも思ってしまいます。
 同質であることを尊ぶ島国日本にすんなりと根付いていく定型社会。対面コミュニケーションでは簡単に伝えられないようなことまで伝えることで築かれ、深まる関係と、対面コミュニケーションでは簡単に伝えられるようなことすら伝えられないことで発生し、深刻化する確執という、あまりに振度の大きい長短は、なにかどこかが剥き出されすぎているんですよね。
 デジタル化は決して進化ではなくて、それどころか結局いくら社会がデジタル化しようと、根本的に、人というものはどうしようもなくアナログで、文化(感性)的でしかいられない存在なのだ、ということを慨嘆するしかオチはないように思います。もしくは、「バカとネットは使いよう」とか言って一笑に付すか。
 何はともあれ、郵便事業の落ち込みは、ネット社会の光と影を如実に反映しているのではないかなあと、思ったりしたのでした。