ただより安い命なんてものはありはしないのだから

 先日の読売新聞、「がんとともに」という連載記事に、「医師の説明、有料化しては?」という提案がなされていました。目からうろこが落ちてしまいました。
 新聞もオンライン化が進んで、最新の事件事故については紙面よりweb上でチェックしたほうが豊富だし詳細ですらあるけれど、やはりこういった解説・提案系の記事は紙面を読まなくてはね。まぁ読売新聞以外の新聞はどうか知らないけれど。
 先日も、ちっちゃいおんにゃにょこの喜ぶ髪の結い方に関する記事が掲載されていて、とってもためになりましたよ。

入院するとすぐに、勤務医の激務に気づく。謙虚な患者は遠慮して、十分に質問もできない。十分に説明する医者は、必ず私生活を大きく削っている。美談ではあっても、強制は無理だ。

 考えてみれば、弁護士による法律相談だって、時間単位で相談料が取られるんでしょう?
 専門家の専門知識に基づいたアドバイスは、素人にとって金銭価値のあるものだし、実際に法的手段に訴えるときにもその弁護士の助力が必要不可欠であるのと同じように。医者の説明はまさに本人にとって命を左右するような大事な事柄に関することであって、実際の手術をするにしても、その医者がいなければそもそも始まらないのだから。
 むしろ現在のように、医者の専門知識に基づいたアドバイスが無料であって、医者の報酬とは関係ないものであるということのほうが問題のように思えてきます。医者にとっての正当な報酬であると同時に、患者にとっての正当な権利を行使する担保としても、医者による説明は金銭を伴った契約行為であるべきですよ。
 お金を貰うことで、医者はビジネスとして患者に説明をしなければならなくなるし、お金を払うことで、患者は顧客として医者に十分納得の行く説明を求めなければいられなくなるでしょう。
 結局お金は、互いの責任と権利を自覚させるための便宜にしか過ぎなくて、その多寡や、経済的弱者のことを考えて止めるべきだという話ではなく、それは事後的に保険や福祉から援助すべきであって、まず何よりも、患者が医者の机に万札をどかっと置いて、「ほぅら、これで俺にもちゃんとわかるように説明しやがれ!この野郎」という態度が取れるようになること。
 それが実質的に患者と医者の立場を対等なものにして、インフォームドコンセントやらセカンドオピニオンといった抽象的なカタカナ語を、"確かな日本語"として定着させることに繋がるんじゃないかなぁ。
 「ただより安いものはない」というけれど、ただより安い命なんてものはありはしないんだから。昨今の医療にまつわる不幸や不祥事の遠因としてよく指摘されている、慢性的な医者と患者のコミュニケーション不足は、患者と医者双方のビジネスライクと善意・熱意がぐちゃぐちゃに混ざり合い、しかもそれぞれがすれ違っているから起こっているような気がします。医者にしろ患者にしろ、そもそも悪い人がいるわけないのだから……。
 何が当然の義務・権利なのか、何がそういうものを超えた善意・熱意であるのか。それをわかりやすく明確にするために、便宜でしかないお金で、両者の関係の基礎部分(契約関係)を明らかにするべきなんじゃないかなぁ、と思ったのでした。