男というありのままの性 女という楽しめる性

18歳の学生です。私は女に生まれて損ばかりしてきたと思います。
男には生理がないけど、女には生理がある。男は立ちションベンができるけど、女にはできない。男は夏の暑い時期、家の中だったら、パンツ一丁で過ごすことも可能だけど、女はたとえ家の中でもきちんとした服を着ていなければならない。男はあぐらをかいても平気でいられるけど、女はきちんと正座していなければならない。
男は自分で子どもを産まなくていいから、楽して子どもを残せるけど、女は妊娠、出産をして、大変な思いをしなければ、子どもを残せない。
このように男は得なことだらけ、女は損なことだらけです。最近はイライラばかりが募ります。

読売新聞の人生案内より。とても痛快で、当然かつ自然、それでいてどこか救われるような男に対する元も子もない無邪気な僻み。森英恵さんによる回答も見るからにタジタジしていて、さらに痛快です。

大切なのは個性です。しっかり自分を磨いて、個性的な"いい女"を目指して下さい。

ぷぷぷ。いや先生ね。そういう話をしておるのではないのですよ。そんな高尚ではなく、男は立ちションベンができるけど女にはできない、あんまりじゃなのよ!?そういう話なのですよ。
なんというか、「思いっきりテレビ」の「ちょっと聞いてよ生電話」で、みのさんの伝家の一言でバッサリ片付けるわけにもいかない、深刻すぎる相談の回に感じられる不謹慎な痛快さに似ていなくもありません。深刻さに関しては名うての歴代生電相談者に引けをとりませんよ。ただ、"アホらしい"という形容詞がつくのはやむを得ないところですがね。

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男というものは、特段男であるための努力をしていなくても、ある程度男でいられることができるけれども、女は、女であるための努力をそれなりにしていなければ、女でいることができないという意味で、18歳の女子学生さんの"主張"はこっぴどいまでに正鵠を得ています。
男とは、「できる」ことを「できる」こととして標準化されている存在であって、女とは、「できる」ことを「できない」こととして標準化されている存在だといえます。女らしさの原型である「恥じらい」や「奥ゆかしさ」は、できるはずのことをしないことによって育まれる情緒であって、実際にできなくすることで創造される文化でもあります。女らしさとは、「○○なことしちゃ(言っちゃ)ダメ」という定型の○○に何を当てはめていくか、禁止ルールを女性に適用することで楽しむゲームなのです。
そのゲームを楽しむ主体は、男という同性意識の総意。女らしさという禁止ルールゲームを最も厳格に、ヒステリックなまでの徹底的さをもって表現・実現させたのが、オタク文化における2次元美少女ヒロイン群であり美少女ゲームであるわけですね。
実行可能であるはずのことを不可能であると自ら強いる(思い込む)ことに、女性としての価値を見出す文化的思想が根強いからこそ、男女平等社会を目指そうにも、男側からだけではなく、身内の"裏切り"によって、思うように実現していきません。
急進的なフェミニズムが女らしさ・男らしさという文化的障壁の破壊を企図しても、「それしゃあマズ更衣室の壁を取っ払おウか。んン?」という下卑たヤジによって容易く防衛されてしまうのは、女が女らしさを捨て去ってしまったら、男は男らしくあることができず、ぶっちゃけ勃起すことができなくなりそうだから。こリャ一大事とばかりに男は最大限力の差を誇示して、フェミニズムの正当な攻撃に対しびくともしてはならないのです。
できることをできる男と、できることをしない(できない)女という区別は、そのまま性のありよう(SEX)にも結びついていきます。見る性(できる男)と、隠す性(できない女)。「ほれほれ」と男が"できる"ことを主張すれば、「だめよ」と女は"できない"ことを主張する、互いが互いを騙し、演じなければ恋愛と、しいては性行為が正常に成されないという大本的状況から変革していかなければ、フェミニズムの理想や、真の男女平等は実現しないのではないかとすら思ってしまいます。
女は、できることができず、文化的肉体的に抑圧され、とても苦労しているというヒロイン像の甘みにアイデンティティを見出し、そんな可哀相な女を、できることができる完全無欠の男は愛の力で救い出す、というヒーロー像の甘みに男はアイデンティティを維持する、低俗ともいえる両性の依存関係。あるいは男らしさ・女らしさという幻想が、伝統的道徳観念と結びついて、文化思想的価値にまで高められてしまった結果、男女それぞれが本人の意思ではどうにもならない根本部分によって、性にまつわるあらゆる状況において、個性を覆い隠され、半ば不随意的に突き動かされているというのが今日的状況なのではないのかなと。
可哀相は"可愛そう"。辛い思いをしている女の子はどうしたってかわいい。同情を入り口にして恋愛は始まるものだという指摘が暴論とのそしりを受けたとしても、ギャルゲーで描かれている恋愛なんてぶっちゃけ、主人公・ヒロイン間の同情のやりとりに他なりません。「女の子っていうのはこんなに大変なのよ」というメッセージ、それは例えば「巨乳だと肩がこっちゃって大変なの☆」という具体的なフェティシズムさえ伴って、同情誘引プロトコルを装った扇情性として僕たちの前にしばしば現れてくるものです。
女が女でいることは大変で、それ自体偉いということ。実はその大変さに報いてあげるのも、偉大さを認めてあげるのも、男の側に与えられた特権です。であればこそ、特権を生かすために女はより大変でなければならず、事実そうなってしまっているこの社会において、そもそも女が大変なのは全て男のため(せい)なのだという男側の思い込みを生み(巨乳とは男の性欲を満たすために存在し維持されるもの。だから「肩が凝るのは男のせい」。授乳機能にとって巨乳であることは意味がないのだから)、然れば、辛そうにしている女の子を見ると、それは極めて自分のための健気さであり、(特権行使の正当性を証明する)同情的な劣情をそそられずにはいられなくなってしまうのです。
(それが可能であるという意味での)しどけなくだらしなく安楽である男という"種"に対して、女が前提的に僻み・羨望・憧れを抱いていると男が感じる、あるいは感じさせるということは、農民の下にさらに下級の身分を設置することで、本来お上へと向かうべき農民の不満を下へと逸らせる効果が生じた、あるいはそうなるよう意図された江戸時代における身分制度のように。男にとって"なんでもないようなこと"が、女からの視線によって、それがとても優越的で高級な待遇だったのだという珍奇で省資源なレトリックとして成立し、存外安っぽくも男の自我基盤を安定させます。
だからこそ僕は、18歳の女子学生の愚痴、立ちションベンできてパンツ一丁で過ごせてあぐらをかける男に対する無垢な憧れに救われてしまうわけです。

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そのうえで、あるいは慰めにもならないかもしれないけれど、男というものが、「できる」ことが「できる」だけの、ありのままの性であるのに対し、女というものは、「できる」ことが「できない」代わりに、それ自体で楽しめるようになっている性である、ということでもあります。
立ちションベンをしようが慎もうが、男は男でしかなく。パンツ一丁で過ごそうがきちんとした服を着ていようがあぐらをかこうが正座でいようが、男はどこまでも男でしかありません。けれども、女は努力次第でいくらでも"女"になることがきるわけですね。いわゆる女を高めるというのでしょうか。
男が点であるとするならば、女は線。男というどす黒い染みに対し、女はどこまでも伸びていく一本の凛々しい線。恥じらいとは端来、奥ゆかしさとは奥往かしさ。女という性は、まろやかな端より出でて尽きることのない奥へと往き来する旅人のようであって。
性器を刺激してその先端から白い液をぴゅっと出してしまえばあっさり終了してしまう、あらゆる男にとっての(生理的な)性とは根本的なまでに違い、複雑で個性的で持続的で全身的な性的快楽に端を発し、妊娠、出産、そうして授乳を通し一体となった子に注がれる、人類の未来へと繋がっていくまなざし。
女にとっての性とは、生理を基点とした同一線上の"進化の歴史"を往き来しているようなもの。たとえ生理がなくなる年齢に達したとしても、子たちへのまなざしが潰えることはないのですから。女という性は男のそれと同じように、生涯のものです。
女は、男と性的に交わることによって進化し、未来と全人格的に交わることができるようになるわけです。男はそれに参加することはできても、主体となることは決してできないのです。せいぜい、その進化の歴史の"開始ボタン"といったところでしょう。
今日をあるがまま生きているのが男という生き物だとしたら、明日をゆめみて生きていくのが女という生き物。人類の未来は確かに彼女たちが握っていて、男は、明日には精液が溜まり、明後日にはどこぞに吐き出さずにはいられなくなるけれども、女は、子どもを産もうとしなければ、明後日も明々後日も産まずにいられるのですから。
妄想的な夢見心地で為される男の夢精と、ひどく現実的な苦痛を伴って為される女の生理の違い、それは今日ある幸せは瞬く間に遠い思い出と為り、明日くる現実は苦痛を伴って為さなければならないということの比喩のように思えてなりません。
創造主が真実、人間の種が絶えないように性システムを構築したのだというのならば、出産に関して女に大変な苦痛を与えるのは理にかないません。遺伝子が人間の数を増やすことを至上命令としているならば、そもそも妊娠・出産はもっと安楽に済ませられるべきです。そこに最大級の苦痛を女に与えているのは、創造主か何かのなにがしかの啓示的、あるいは"大きなお世話"が介在しているような気がしてならないのです。
人類に未来のために生理的に苦しむことができる女に対し、男というものは潜在的に僻み、羨望し、憧れを抱いていて、だからその代償行為として好きこのんで戦争を引き起こして、互いに武器で突き合って痛い思いをし、ときには死んじゃうくらい苦しませ合っているのかもしれませんね。それが人類の未来を損なう自滅行為であることはわかっていても、ただひたすら"女と同じように苦しみたい"という純粋無垢な想い(=愛)ゆえのことなのでしょう。
存外、出産に際して男にも女並に生理的な苦しみを与えることが(医療技術的に)可能になったならば、戦争なんてぱたりと止んでしまうかもしれません。
そんなアホな……。

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まぁ、とりあえず僕が18歳の女子学生さんに回答するとしたら、こうでしょうかね。
「性的生物としての醍醐味を満喫できるのは人間において女だけ」
それが幸いなことなのか、それとも不幸なことなのか、男である僕にはわかるはずありませんけれども。