楽園という名のレストラン

「なぜ人を殺してはいけないのか」
という疑問を素面で口にするようなヤツはそもそも、まず自分が死んでみてくれと思わずにはいられなくなってしまいます。
「そう言うなら、なぜ貴方は今生きているのですか?」「最早なぜ自殺しないのか」
(他)人を殺すということと、自分の命を絶つということを"別個にして"考えていられる時点で、貴方は幸せな馬鹿だ。どうぞお引取りください。
人を殺してはいけない理由の肝心な部分は、きっと、自ら"殺される"間際にしか、わかることはできないのではないかと思います。でもそれは、"わかったところでしようがない"瞬間に会得させる真理であり、そのことが普通に容易に想像がつくから、誰もが不問に付しているのです。わかりきったわかりえないことであるんだから、そこに適当な理屈を差し挟もうとしないでください。そうはいかんざき。
生きることに理由はあり、死ぬことに理由はありません。1人称視点を欠いた死の認識は、2次元美少女にはぁはぁする僕なんぞよりよっぽど重度の妄想家です。近寄らないでください。

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人を殺すという行為は、たとえば、レストランの隣のテーブルに座る赤の他人に配膳されたメニューを掠め食うようなものなんじゃないか、と思います。
誰もが自分専用のメニューを注文して、それを食べています。それを食べ終えたら、会計を済ませてそのレストランを立ち去ります。今生というレストラン、人生というフルコース。*1
最近は、メニューを食べている途中で「このメニューは美味しくなさそうだ!」とばかり床に料理を投げ捨ててレストランを急去してしまう客が多いそうです。練炭の匂いをちらつかせて。あるいは砂漠の暑い地域では、突如レストランに乱入してくるならず者たちが、人様のテーブルをメニューごと軒並みひっくり返していくトラブルが頻発していて、レストランがしっちゃかめっちゃかだそうです。
まぁそういう物騒な噂話は置いておいて。隣のテーブルに座る見ず知らずの他人のメニューに箸を伸ばすという行為は、物理的に言えば3秒も掛からず実行に移せるのに、それを実際にやることはひどく困難です。そこに確かな理由はありません。隣のテーブルの人が美味しそうなメニューを食べていたら、そのメニューをわざわざ調べて改めて注文するというようなまどろっこしいことなどせず、ちょいと端を伸ばせば済む話だというのに。それをせず、しかもそのメニューが自分にはとても手の届かない一品であることを知り、絶望したりするのです。
結局、その人のために調理され配膳されたメニューは、どこまでもその人だけのものなのです。それが傍から(その料理の匂いを)嗅ぐと実に美味しそうで、巧みに掠め食うことに成功したとしても、それはあくまで隣のテーブルの人が注文したフルコースのうちの一品であって、単品で食べても実はそれほど美味しくはなく、掠め食われた人はもちろん、むしろ掠め食った人双方のフルコースメニューの一連性を損なうだけの、浅ましくも無意味な行いであることを知るのです。
人生という自分だけのフルコースメニュー。それを囲むテーブルメンバーたちは、始終穏やかに、やさしげに、僕がメニューを静々と口に運ぶさまを眺めています。時に忙しなく、時に箸を止めていたりするさまを、癪に思ってしまうくらい楽しげに。そういう僕も、その人のフルコースメニューが配膳されたテーブルでは、同じように穏やかでやさしげな眼差しで見つめているかもしれません。楽しげに、いや、そう、むしろ貴方のテーブルメンバーでありたいと切に願っています。
そうして、全ての人にその人だけのフルコースメニューがあって、その人だけのテーブルと、彼を囲む人々のあたたかな眼差しがあまねく交錯し、ゆるやかな会話がテーブル上の空間を埋め尽くすとき、
「なぜ人を殺してはいけないのか」
という色味のない言葉に対して、
「そんなことはどうでもいいから、どうか貴方のメニューをゆっくり食べていらっしゃい」
と応える、それ以上にどんな回答のしようがあるのかと。僕は、思ってしまうのです。
そんなレストラン。それは楽園のことですか?…そうかもしれませんけどね。

*1:人生をフランス料理のフルコースメニューになぞらえる発想は、先日亡くなったフランス料理人・村上信夫氏を追悼する読売新聞記事より借用しました。