体罰について 所在なきスポーツマンシップ

先日終幕した全国高校野球選手権大会。二大会連覇を果たした後の駒大苫小牧高校野球部において、部長による生徒への暴力事件とその報告遅れの問題が発生し、結局、優勝旗は剥奪されることなく部長解任、関係者処分という形でけりがつきました。
とはいえ、駒大苫小牧高校野球部とその優勝旗がどうなろうと僕に関心はありません。そもそも僕はスポーツ競技としての甲子園大会に興味はありませんから。興味があるのは応援席の女子高生と飛び撥ねるチアガールたちの乳の揺れ具合くらいなものです。いつだったか石原都知事が話していたけれど、まるで高校部活動の範囲を逸脱している高校野球の扱われ方に僕も疑問を感じています。
野球部の全国大会を全試合テレビ中継するなら、それ以外の部活動(バスケや卓球など)の全国大会も同じように全試合テレビ中継するべきだし、さらにいえば吹奏楽やコーラスなどの芸術系部活動の全国大会もテレビで全演奏を放映すべきでしょう。弓道や新体操の全国大会があるのなら、いやらしい意味で僕は全試合の隅から隅までテレビ中継し尽くして欲しいと切に望みますよ!
日本人はたいがい野球というスポーツがことのほか大好きで、プロ野球選手を目指す若者にとって甲子園大会での活躍がプロ野球への近道となっている現状があり、その事実が、人々をして甲子園大会に注目させることに繋がり、であるからこそ、高校教育の一環である(に過ぎない)はずの野球部の全国大会を全試合テレビ中継し、全国放送するのが恒例となっているのでしょう。
そういった、教育の一環という本来を離れ、新人プロ野球選手発掘のための公開オーディションと化している甲子園大会というものが、事実として社会的に広く認識され、その舞台へと野球部を送り出すことが高校の知名度に直結するからこそ、設備や指導員に資金をつぎ込み、有望な生徒を全国から募り、甲子園大会出場校という地位獲得を目指します。生徒も、たとえプロ野球を目指していなくとも、「甲子園大会優勝」という、どんな小難しい資格よりも輝かしくインパクトのある経歴を手に入れるために、教育の本来とはかけ離れた練習に日夜明け暮れ、指導者は自らの野球界での名声を高めるため、まさに「良く勝つ」ための指導を生徒たちに施し、ときには生徒達の意に拠らない過酷で非情な練習を強制していくことになるのでしょう。
もちろん、全ての関係者、指導者、生徒がそのような下心を持っているわけではありません。というより、その大部分が本当に野球というスポーツに対する純粋な気持ちで一心に練習に従事し、生徒たちの心身健やかなる育成を第一に考えながら指導し、皆で団結して試合に臨んでいるだろうことを僕はこれでも信じているのです。しかし、彼ら誠実な野球少年に施される部活動(スポーツ)を通した真摯な教育というものと、高校・社会一般が認識している、プロ野球をピラミッドの頂点としシステム化されたエンターテイメントとしての野球競技、その重要部分として組み込まれ系統づけられている高校野球というものとのギャップが、今回の駒大苫小牧の指導者による生徒への暴力問題の根底にあるのだろうということは、何も無学な僕がわざわざ指摘するまでもないことでしょう。

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そもそも体罰というものは悪なんでしょうか。僕は、体罰というものは「条件次第で善」になりうる非常に扱いの難しい教育メディア(あるいはチャンネル)であると考えます。
教育という場において、人が人として社会で生きていくために、「絶対してはいけないこと」と、「絶対しなければならないこと」というものが存在します。それはそもそも理屈じゃない、論理的に筋道立てて説明するのは難解極まるけれども、人が人である以上必ず備えていなければならない暗黙の前提、「人としての約束ごと」があります。それは、数学の公式より国語の漢字よりまずなによりも先んじて、教育というものが子ども達に教えていかなければならないことです。
それが何であるかということを、生徒は「気づき」、そして「確認」し、その絶対遵守性に「触れる」一連の過程が教育には求められます。その絶対遵守性に「触れる」にあたりごく稀に「破ろうとする」生徒が出てきますが、それを戒めるのに際して、時と場合によっては体罰が必要となるケースも厳然として存在している、それが事実だということであり、僕の思うところです。
人として絶対にしてはいけないことを、しても、人として絶対にしなければならないことを、しなくても、社会にあまり影響を及ぼさずに済むという側面が、学校という閉鎖的な箱庭にはあります。そこで徹底的なまでに教え込まれる「人として在るべき型」、それを全ての生徒に定着させたうえで社会へと送り出していくことが、教育というものの中核であるべきだと思うのです。
僕は実は中学時代ずいぶんダメな生徒でして。つまり「絶対しなければならないこと」を面倒だからやりたがらないような、そういう消極的不良生徒でした。それに関して主に部活の顧問教師から体罰を食らったことは何度かあります。生徒指導室で土下座をしたこともあります。ほとほと僕の中学時代は恥ずかしい思い出ばっかりです。
しかし教師に胸倉掴まれようが、叩かれようが、それを暴力だと認識したことは一度もありませんでした。それは、僕がそうされるくらい「しなければならなかったことをしなかった」という自責の念があったからで、むしろそういう暴力を伴った指導をもらうことで救われるような側面もありました。
自分が感じている罪を、他者に叱られることで肯定されるということは、少なくとも際限なく広がりかねない罪の意識の拡大を防ぐ、ある種の"型枠"を与えてくれるような効果があるものです。つまりその時点での僕は、「人としての約束ごと」に気づき、確認済みのはずなのに守れず破ってしまった、その戒めとしての教育をその教師から受けていたということになります。恨みもしましたし、腹は立ちましたけどね(あのハゲがっ!)。不思議と担任や親に話そう(通報しよう)とは思いませんでした。まぁ今とは時代が違うというのもありますけど。
それは、僕のためであり僕で完結する指導であるとガキながらに感じていたし、それに担任や親に話したところで、それは「当然の仕打ちだろう」とむしろ新たな体罰を食らってしまう可能性すら容易に想像できたからです。体罰というものは、それを施す側の連携によってさらに有効に働くものであるといえます。
例えば、教育の理念的な部分において教師-保護者間で通じ合っていれば、重大な約束違反を犯した生徒に教師が体罰を含んだ強い指導をしたとき、その後すぐに保護者と連絡を取り、「私たちの教育理念に反する行動を彼が犯したので体罰を含む指導を施しました」という話をし、保護者も「それはしかるべき指導だ」と納得できれば、たとえ帰宅し教師の指導に納得できなかった生徒が、保護者に教師の仕打ちを一方的に非難したとしても、「それはお前が間違っている」と、(彼の最終的な居場所である)家庭でのフォロー教育が施されます。
これはあくまで理想的な話ですけどね。教育の中核にしっかと根拠を置く体罰で、しかも生徒を取り巻く個別的な"教育機関"での連携がちゃんと生きていれば、それは実りある確かな教育へと昇華していくのではないかと思ったりするわけです。それが、体罰を教育として有意義に活用できる唯一の善。「暴力反対」「体罰は悪だ」という安直な思想のもと教育の本質に忠実な教師を軒並み放逐し、「自分の思うように生きなさい」という個性尊重のゆとり教育主義が、いったい何をもたらしたのかと、言おうとしても、それは一概には言えないことだけれども…。
ただ一方に、単に教師個人が独断と偏見で打ち立てた教育理念や、指導プログラムに従わないからという理由で、いわば教師自身のプライドが傷つけられた腹いせに過度な体罰を生徒に与え、自分の気持ちが静まればそれでいいやという教師がいて、他方、子供に対する全ての教育機会を学校に押し付け、自ら教育機関としての職務を放棄した家庭が、体罰の教育的意味合いを教師と共有しようとせず、ただ体罰の暴力性のみをあげつらい教師と学校を一方的に非難する。そういう「わかっていない」「わかろうとしない」「わかりあおうとしない」者同士の"予定されたすれ違い"が、拡大虚飾され、学校の体罰事件として社会に表出しているような気がしてならないのです。

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こう考えてくると、そもそも今回の駒大苫小牧の部長による生徒への暴力問題は、僕の考える体罰の問題ではないような気もしてきました。昨年の優勝校であり、今年の甲子園大会も優勝するという目標を野球部が当然のように打ち立て、それを部員である生徒はわざわざ表明するまでもなく賛同し、その保護者たちも同意し、そのための指導を一切関係者に委任するという暗黙の一致体制が築き上げられていたとしたら、そこで態度不良や指導者の指導方法に従わない部員生徒が現れれば、教育的意味合いのない体罰によって、本人の態度の是正と部内の規律維持がはかられていくことは、織り込み済・想定範囲内の対応なのではないでしょうか。
教室内的な意味での体罰は世論によってかなり葬られた感がありますけど、スポーツにおける体罰は現役だと思いますからねえ。
甲子園大会に臨む高校野球部の練習活動が、教育の一環であるのなら、体罰を受けた生徒やその保護者がその教育的意味合いを理解することができず高校や関係者に訴えるのは当然のことといえます。「ご飯3杯食べなかったから殴られた」ということの教育的意味合いを理解しようなんて、素人には土台無理な話です。「食えないものは食えないだろう」と。
しかし、甲子園大会に臨む高校野球部の練習活動が、教育の一環でないのなら、ひたすら優勝を目指してそれこそ寝る間も惜しんで練習を積んできた部員たちの、ようやく掴んだ栄光に泥を塗るように騒ぎ立てる生徒とその保護者の姿は、とても共感できるものではありません。「食えない物を無理やり食うのも練習の一部だ」と。
甲子園大会というものが教育の一環ではいられないように仕向けている社会と野球ファンとメディアの現状において、指導者の生徒に対する体罰問題で高野連の対応も巻き込んでこうも騒がれている、そんな光景にふと違和感を覚えてしまうのも含め、もしかしたら、高校野球というものを教育の一環として頑固に位置づけていこうとする、まだ失われてはいなかった、頑固に熱く清涼なこころざしの、でも最後のほうのあがきなのかもしれないなあと、慨嘆してみたりするのでした。
部活動として野球に臨むのか、野球そのものずばりに臨んでいるのか、"本気の所在地"があやふやで、生徒たちの覚悟を迷わせている矛盾をはらんだこの現状をこそ、まずどうにかしなければならないような気がしています。生徒は何に気づき、どう確認していけばいいというのか。コーチや監督はなにをもって教育者たるを為すのか。そもそも野球に対し教育が妥協しなければならないとか、教育に対し野球が妥協しなければならないとか…。それとも教育と野球がそれぞれ妥協することなく折り合える、理想の地平というものが存在するのでしょうか。
優勝することで最高の教育的効果が得られるというわけでなし(?)、とはいえ負けて得られるものがあるとしてもそれは本気で取り組んでこそ、少年達を本気で取り組ませるためには優勝を目指すのが一番手っ取り早いわけで。教育的意味合いをとことん求めるためにとことん、優勝を目指すんだといわれたら、そこに"教育の一環"というヤツの境目は見当たるんでしょうか。

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 夏休みのある日、息子と一緒に電車に乗ったのですが、私達と同じ駅から、練習帰りと思われる野球部員が20人位乗り込みました。彼らは、車内では大きいカバンを1か所にまとめ、大きな声で話すこともなく、つり革につかまって立っていました。
 日焼けした顔には幼さも見えましたが、頼もしく、笑顔はとてもさわやかでした。野球部の活動を通じて、マナーも身についているのかもしれません。電車から降りる彼らの後ろ姿に、私は思わず「頑張って」と独り言を言いました。*1

スポーツマンシップというものが、教育における「絶対してはいけないこと」「絶対しなければならないこと」ということと、かなりの部分重なり合う思想であり、野球というスポーツを通して教えられるべき「人としての約束ごと」こそが、スポーツマンシップの真髄だとしたとき。
指導者による部員への度重なる過度な体罰に際し、保護者を通じて連絡があったにも関わらず、順調に勝ち進む野球部を鑑み大会の進行に差し障るからと公表せず、内々に処理しようとしたのだとしたら、それは教育者として為すべきことを為さなかったということになり、したがって、さかのぼって彼らは"教育者ではなかった"ということになります。つまり少なくとも甲子園大会に臨んだ駒大苫小牧野球部の活動は、教育の一環どころか教育の末端からも漏れたまったくの埒外であったのです。
「私が生徒に対して行ったことは暴力である。このことを真剣に反省し、いかなる制裁も甘んじて受けたい」
と野球部長がコメントしているそうですが。教育者であるなら、反省するような暴力を振るってはならないし、暴力を振るったのなら反省するなと申し上げたい。暴力を振るわず生徒に言葉を伝える・深く反省させるのが教育の本道であり、暴力を振るってでも伝えたい言葉がある・深く反省させたいと望む真剣な想いこそが教師の本懐ではないでしょうか。体罰は事実として暴力であるけれども、そうであるからこそ、教育になるのです。
もともと興味も関心もない高校野球ですが(だからチアガールの乳揺れは別)、「教育の一環」というキーワードをもってして定点観測していくのには、割と楽しい対象かもしれないなと思い始めた今日この頃なのでした。

*1:本日付読売新聞朝刊より