「インターネットや雑誌、友達から、ゆがんだ性情報が入ってくる前に、正しい知識を伝えたいものです」と、思春期以前の「情報先着主義」を唱える。(略)「大事なのは、性の健康について親子で科学的に話せる雰囲気を作っておくこと。思春期になって何か困ったことが起きた時に、子どもが親に助けを求めることもできるでしょう」

"ゆがんだ性情報"というものがあるのは確かだけれども、そもそも"正しい性知識"とやらを親が持っているのか、子どもがそれをきちんと(現実として)受け止めることができるのかという点が何より難しい。「親子で科学的に話せる雰囲気」と簡単に言うけれど、性知識とはエッチなことで、エッチなことはタブーだという意識が根強い日本文化において、禁忌性を打ち破り、情緒性を無効化し、地球が太陽を中心に回っているのと同次元で性知識を"教えること"、そして"学ぶこと"が求められていくのですから。
情報先着主義とともに、性知識教授過程にまとわりつく日本的文化妄染をまずどうにかしないことには。とはいえ、性知識がエッチなことで、タブーだからと、徹底的無知と潔癖性、強迫的貞操を女の子に掲げてもらわなければ、2次元美少女ヒロインも萌えもなにもありはしないんでしょうけれどね。
男より性知識の豊富な女という実現可能的現実を、きっと男は心の根底では認めていない、受け入れていない。童貞を捧げるのは経験豊富なお姉さんだとしても、最終的に恋愛的に結ばれる女は、相対的に(ほんとうは絶対的に)無知・潔癖・貞操観念保持者であり、男が性的世界に誘い、快感(幸福)をもたらしてやるのだ(それこそが男の本懐)という無垢な願望を無邪気に信じることができなければ、きっと男はコトに際して勃起すらできやしないんじゃないかという不安は、男なら誰しも漠然と抱いているのではないでしょうか。
性知識(客観)と性意識(主観)は違うのだとしたうえで、生物学的にSEXが男=能動/女=受動というポジショニングだということ以上に男女の対等関係を覆そうという圧力は、全て文化社会的捏造なのだという確固とした認識に至って初めて、僕らは"正しい性知識"を子どもたち(次の世代)に教えることができるようになるのだろうし、僕らの教育準備が整ったのなら、子どもはもうきちんと学ぶことができるようになっているはずだと思います。
まぁ、そういう機会が訪れることは恐ろしいくらいありえないでしょうけど。

爛漫と咲く桜、錦なす紅葉を知る人であればこそ、苔屋しかない海辺の淋しさに感動できる。はじめから苔屋を見せても誰も美しいとは感じない。豊かな素地があってこそ、簡素の美が一段と美しく感じられると、いけばなが教えてくれる。