「先生が授業に遅れたのは、A男さんと話していたからです。『みんなが僕のことを嫌っているから、学校に行きたくない』と言っていました」5年生の教室が、一瞬にして静まり返った。
 「みんなは口には出さないけど、心の中でA男さんを避けているように見えたよ。二人組を作る時、できれば一緒になりたくない。鬼ごっこでも手をつなぎたくない。そんな風に思っていなかった?」と聞くと、ほぼ全員の手が挙がった。
 「みんな正直だねえ。でもね、A男さんは体が弱いのに、水泳の練習やサイクリング遠足の時、一生懸命がんばっていたよ」と言った。だが、その後に続く言葉が出ない。彼らは昨日までA男を嫌っていたのだ。「きょうから仲良くしよう」と押し付けても、本当の解決にはならないと思った。
 困り果てて下を向き、しばらくしてゆっくり顔を上げた。すると……。目の前には何人もの子どもたちの手が挙がっていた。「消しゴムを忘れたら進んで貸してあげたい」「休み時間に一人でいたら遊びに誘いたい」「悪い時は悪いと、普通の友達のように接したい」
 聞きながら涙がボロボロとあふれた。「今日はこのクラスを担任して一番うれしい日です。でもね、A男さんは今、保健室なの」と私が言い終わらないうちに、「僕らが行って連れてきます」。全員が教室を飛び出していった。
 あれほど教室に行きたくないと言っていたA男が来るのか。だが、しばらくして子どもたちはワイワイと戻ってきた。先頭のA男を囲むようにして。
 子どもたちが何と言って彼を連れてきたのかはわからない。でも、A男は確かに教室に戻ってきた。眉間のしわも消えて、笑顔が見られるようになった。みんな、ありがとう。

安易に比べるのはいけないことだけれど、以前引用したこのエピソードを思い出さずにはいられません。
http://d.hatena.ne.jp/tsukimori/20050826
子どもだから無邪気に残酷なことができる。子どもだから臆面もなく素敵なことができる。子どもには子どもなりに下心とか、世渡り的な意識があるのだろうけど、それを差し引いても人間のありのままの在り方その幅が大人のそれと比べて群を抜いているように感じられるのは、まぎれもないことです。
きっと、子どもは元々waveファイル、大人になるにしたがってMP3として圧縮されていくのでしょう。実生活で不必要な感性を"間引く"ことでファイルサイズを圧縮して、その空いた領域に知識や経験を記録していく。圧縮率を向上させるスキルは磨かれていっても、waveファイルがそもそも持つ感性は失われてしまっているから、非常識的なことに罪悪感を覚え、善美的なことに臆病となる。ありのままではなくなっているものだから、今さらそのように振舞おうとすると古傷が痛むように、ツンツンしてしまうんでしょうね。
とはいえ、古傷が傷むということは、かつての感性その根っこまでは間引きされずに残っているということで、だから僕らはたまに本気で憎むことがあって、たまに素っ頓狂に感動できるんでしょう。大人は等しくかつて子どもであって、いつになっても子どもであることを完全消去することができないものだから(ごみ箱に捨てようとしてもいっつも「他のプログラムが使用中」)、相手の気持ちを思いやることができてしまうのだと、思うのです。
だけどそれを誠実に明示することのできる人は、やっぱり凄いし羨ましい。子どもたちの「嫌い」という感情を思いやった上で、それでもみんなが仲良くして欲しいと願い、苦悩する先生は、子どもたちにとって思いやるにかなう"同じ子ども同士"だったのでしょう。ゆえに子ども本来の善美に対する臆面の無さを活性化させていった。感動って、他所から持ち出されてくるものじゃなくて、本人と当人が対等の対場で交感するものなんですよね。まぁ当たり前のことですが。