死んで不幸せになった人を、ひとりでも見たことがあるかね?

 学ぶということは、「なりたい自己」と「なれる自己」を広げることだと考えみるとどうだろう。「なりたい自己」というのは、社会的役割、趣味、思想などを含めた「あのようにありたい」と思う生き方である。「なれる自己」というのは、今の自分の延長として可能な選択肢である。
 私たちは、学ぶことによって、それらの自己を広げて、その重なりあうところから何かを選んで「なっていく」。なぜ学校で学ぶのかといえば、日常生活だけでは、「なりたい自己」も「なれる自己」も狭いところで閉じられてしまうからである。学校の学習に限らず、自分が何か新しいことにトライしてみることによって、「それを楽しめる自分」を発見できたり、自分の将来の可能性を広げたりできる。

 つまり、或るお手本めいたものが目の前に存在し、それに刺戟されて自己独自の表出を果たして行くようになったわけだが、先行するその憧憬作品と自己表出との距離の、その程度と限界の厄介な問題が出て来る。類似・模倣・剽窃の事がそれである。格別邪心は無くても、潜在意識の事が厄介である。心惹く先行作品の魅力が大きければ大きい程心に焼きつき、何時しかそれが他者の作たる事が忘却されて心中に潜在し、やがて自己作品の如く思い込む事である。

 若いあなたに私がまず言いたいことは、誰も人生の目標をすっきりと決め、それに向かって無駄なくまっすぐに進んでいるわけではないということです。あっちにつまずき、こっちに転び、傾きつつ揺れながら生きているのです。夢というものに向かって突き進んでいるように見えている人でも、迷いを振り捨てているわけではありません。
 もし迷いがまったくないのだとしたら、むしろ可能性は少ないのではないかと思えてしまいます。迷いの中にこそ、思いがけない可能性があるのです。人生はそれほど整然としたものではありません。

 問題はむしろ、私達が何にでもすぐ答えを出したがり過ぎているところにあるのではないか。(略)唯一の正しい答えがあり、物事は効率よく思い通りにできるのがよい、科学技術が基本にしているのはこの考えだ。(略)ところが、人間もその一つである生きものは、効率よく思い通りにできるものとは程遠い。そもそも生きるとは、時間を紡ぐ過程そのものなのである。しかも、それは決して思い通りになるものではない。草花でも子どもでも生きものを育てることを考えたら、「唯一の正しい答え・効率・思い通り」という考え方が、いかに生きものに合わないものであるかは、明らかである。(略)
 効率だけを求めず、生きるというこの面倒な過程そのもの、つまり、日常の暮らしにもう少し手間暇をかけるようにして、こころといのちを大切にする社会にしていきたい。