われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。

その場しのぎの人生と、偽善と、自らの空白の魂にいまさら寒気を覚えながら、就職活動中。だからこの4月は、決まるまで更新をしないようにしようと決めたんです。文章を書くのは現実から逃げているような気がするので。でも、その代わりにモンク育てたり、「To Heart2」とか「ゆのはな」やってたりするんだから、本当僕は救いがたい。どしがたいね。

 つかの間の生の絶頂と、着実に忍び寄る滅びの影。その象徴として、桜は文学作品にしばしば登場してきた。(亡妻の好きだった木に残された思い。妻の不在を桜が埋めている趣)(自身の不安定な現在と、育った家庭に対する小さなため息が結晶したように)
 桜という花が長く背負わされてきた象徴性は、一方では次第に薄らいでいるのではないか。(さして変化のない日常、そうした場所にも確実に季節は巡っていて、そのしるしとして咲く花)
 <桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか>と梶井基次郎が書いたのは昭和3年。近所で桜を見上げたとき、80年後を生きる私たちは、何を思い浮かべるだろう。
 昨今、漫画やゲームに登場する桜のイメージは、ほとんどが恋愛がらみ。ゲームの世界では、さらに極端だ。極め付きが2002年に発売された『D.C.〜ダ・カーポ〜』という恋愛ゲームで、舞台となる島に咲く花は、なぜか一年中枯れない。架空の「太正」時代を舞台にした美少女ゲームサクラ大戦」(1996)という大ヒット作もある。
 甘酸っぱい初恋の背景を彩る、お約束のピンクの氾濫。それは「永遠に終わらない青春」の中にいたい受け手の願望を映し、仮想現実の中で、いつまでも咲き続ける。
 季節も風もないパソコン画面の中で、とめどなく舞い続ける花吹雪のイメージは、いかにも「平成」の桜であるかもしれない。

引用部分は僕が意図的に編集したものです。

――祭りが、終わろうとしていた。俺たちのすべてを注ぎ込んだ、祭りが。けれども、自分のすべてを注ぎ込むということでは、それは俺たちの人生そのものだ。……だから、きっと祭りは終わらない。祭りは、いつまでも続いていくのだ。俺たちが、生きている限り。俺たちが、恋をし続けていく限り。

FESTA!!-HYPER GIRLS POP-」より。
桜の樹(受け手の憧憬・願望)の下には屍体(生粋の非現実性や妄想的な感性を嫌悪する人間本来の分別)が埋まっている。しかしそれは、「埋まっている」のであって、人目に触れることはありません。決して僕らの視野上(意識上)に現れてくることはない、作品と受け手が共謀する堅牢な美学。だからこそ、損なわれ汚れることの一切ない「甘酸っぱい初恋」の「ピンク色」は、なにものにも代えがたく至高の、ひたすら甘美なものとして幸せに確信することができ、それがあろうことか「さして変化のない日常」として徹底的に存在してくるのです。『D.C.〜ダ・カーポ〜』の「一年中枯れない」桜に象徴されるように、「俺たちが、生きている限り。俺たちが、恋をし続けていく限り」終わらない、いくつもの作品を経ることで何度でも繰り返される、"永続する自分だけの桜祭り"。
D.C.〜ダ・カーポ〜』は桜が枯れることで物語が終わりますが、僕らの桜祭り、祭りであって物語ではない「永遠に終わらない青春」は、「季節も風もないパソコン画面の中で、とめどなく舞い続ける花吹雪」。だからこそ、桜は何時までも咲き続け、何度でも散り続ける。「To Heart2」でタマ姉がしたように、桜の花びらを巧みに舌の上に乗せて戯れているのは、誰よりも上手にできるのはむしろ僕ら自身ではなかったか。何しろ、舞台が夏だろうと秋だろうと冬だろうと関係ない、時間の途絶し生死の根絶した自分のためだけの世界で、桜の樹は僕らの視界で美しく咲き乱れ、僕らはそのざらざらした舌の上で花びらを、いやらしく味わっているのだから。