上昇相場は、悲観の中で生まれ、懐疑の内に育ち、楽観とともに成熟し、幸福感のうちに消えていく。

「月の音ぷ」
満月が電線に
ひっかかって見えた
あっ
ぼうをつけると音ぷだな
今夜は
きれいな音をかなでる
「月の音ぷ」を見つけた

「人と人のかかわりの中で、人間は生きて、亡くなる。患者さんが目指すゴールがどこにあるのか、ギリギリのところで感じ取れる看護師でありたい」

 大学で心理学を専攻した若者がいた。カウンセラーを目指して卒業後も勉強を続けたが、実際には部屋に引きこもり、夢を膨らませているだけだった。「自分は特別」という思いがあった。そんな生活が何年も続き、(引きこもりやニートの若者を支援している)同事務所を尋ねて、代表(省略)にがつんと言われた。「あきらめろ。お前なんかに何もないよ。お互い平凡な人間だということを認めろ」
 そのときは反発したが、他の引きこもりの若者たちと寮で共同生活を続け、様々な仕事体験を重ねるうちに、「平凡なことの積み重ねこそ大事」、そう思えるようになったという。(略)
 「自分探し疲れ」という言葉がある。
 「個性的でなければ生きている意味がない」という思い込みが、若者を追いつめているという指摘だ。
 自分探しは、もちろん必要だ。だが、それは、挫折も含む様々な体験の上に成り立つものではないか。私たち大人は、その体験もさせないまま、ただ「好きな道を行きなさい」と言ってきたのではないか。

 とくに何かのわざを身につけることがなくともなんとなく生きてゆける。自活能力がなくても、「一人前」にならなくてもまあそれなりに生きてゆける…。大半のひとがそのように感じながら生きてゆける社会(略)、「一人前」にならなくても政治にかかわれる、経営もできる、みんなが幼稚なままでやってゆける、そんな社会こそもっとも成熟した社会であると、苦々しくも認めざるをえないのだろうか。(略)
 福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした(生きてゆくうえで一つたりとも欠かせぬ)自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。ひとが幼稚でいられるのも、そうしたシステムに身をあずけているからだ。このたびの(耐震偽造や偽メールといった)事件の数々は、そうしたシステムを管理している者の幼稚さを表に出した。ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、実はとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。それでもまだ外側からナイーブな糾弾しかない。そして心のどこかで思っている。いずれ誰かが是正してくれるだろう、と。しかし実際には誰も責任を取らない。

そして、物事の"度"や軽重をわきまえる「一人前」を獲得した「おとな」に、人はもっと憧れるべきだという。そうでなければ、固着化した意識や意味、世界の枠組みと束縛からずれることで、「芸術をはじめとする文化のさまざまな可能性を開いてきた『未熟』な感受性を、護ることはできない」と語る鷲田清一氏。しかし、幼稚と「未熟」の差異を論じていないのが残念でした。とはいえ、鷲田さんの思想にはいつも新鮮な感銘を覚えるし、何よりどこか親しくまろやかな言葉使いが好きなんですよねえ。