「インターネットは、グーテンベルクの印刷術や鉄道に匹敵する大発明ではないか。以前なら欲望がどんなに匿名的なものだったとしても、最終的に表出する主体につなぎ止められ、主体の同一性は『顔』によって担保されていた」。ところがネットの匿名性は、「顔」の同一性を消し去った。
 「だからネットは、顔によって管理されていた欲望が解き放たれた世界。複数の人格を操作することも可能になっている」。そこから生じる「主体の揺らぎ、本当の自分は何者かという不安」が、本作(「顔のない裸体」平野啓一郎著)の突きつける今日的な問題のひとつだろう。「ネットに拒絶感を持つ人たちの反応は、フロイトが無意識を発見した時の反応に似ている感じがある。どちららも主体の内部にコントロールできない何かがあることへの過剰反応だと思います」。

 丸腰で歩くことをガンマンが怖れるように、現代人はお金を持たずに歩くのが不安だ。お金は、人を殺める道具ではないが、人は金のために人を殺したり、首を吊ったりする。<金はやはり隠然たる凶器の光を忍ばせている>。そして、<いざとなると拳銃をぶっ放つように、札びらを切る>。
 「お金は良い召使いでもあるが、悪い主人でもある」といったのは米の政治家ベンジャミン・フランクリンである。が、人はしばしば、お金の悪い部分を忘れ、裏側を見ない。
 鳳凰像、尾形光琳「燕子花図」、富士山と桜、と聞いて、ピンときますか。今のお札の裏の絵です。裏もよろしく。

 「私ね、人はね、死ぬときが寿命だと思うのね」「自分の寿命はもっと長いはずだとか、もっと早く治療していればとか、考えればきりがない。それよりも、今生きていることに感謝して毎日を過ごさないと、もったいないじゃない」