名乗りとは最後に押す書の落款のようなものである。自分の名を、自分の声で言うだけのことだが、年月を経るうちに、それぞれの個性は色濃く出るものだ。名所を案内するような抑揚が付いたり、怒ったようにぶっきらぼうだったり、特徴豊かな名乗りは、名前というよりリズムそのものが個人を表現するようになる。
 俳人の葬儀では、たびたび故人の名乗りを真似た声が、どこからともなく上ることがある。おそらく家族や親戚も知らない、座を共有した者たちだけが知る故人そのものである。
 それはまるで鳴き交わしあった群れが、去っていく仲間に送る最後の挨拶のように別れの場面を締めくくる。こうして名乗りの声は鮮やかに記憶に刻まれるのである。

面接に当たって久方ぶりに自分の名を名乗ったけれど、明らかに違和感を覚えたものです。セリフで表現してみれば、「月森さんぽ…?」というテイスト。お前誰だよ?

 安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。

 ピアスの穴を開けたり、ダイエットに熱中したりする身体加工に、人間がはまる理由は、思うがままに変えられない現実のもどかしさに対して、身体加工なら確実な手ごたえが感じられるから。ピアスによって現実に風穴を開けたような気になる、穴を開けるという一つのハードルを越すことでおしゃれの段階を一つ達成した気になる、それがピアスの効果だと思います。

すごい理屈だなあ。ピアスが現実に風穴を開けるんですってばよ?

 サイードの説いたオリエンタリズムという考えは、今日の人文科学研究ではすでに広く普及した考えとなった。欧米の学者や芸術家がアジアやアフリカについて語ったり研究したりするさいに無意識的に抱いてしまう偏見や知的権力が、実は欧米列強の植民地支配と本質的に関係していると見なす立場のことだ。

 外交や貿易では、双方の利益を両立させることは可能であるし、文化交流もまたそうである。しかし領土をめぐる争いとなると、誰の目にも「得失」は明らかである。
 国内に強硬論がくすぶる中で、政治指導者にとって譲歩などは不可能であろう。同時に国民は多くの場合、失われた「自らの領土」の回復を執拗に求める。それが「正義」と考えるからだ。そこに外交の閉塞が生じ、国際関係の緊張が高まり、戦争の種がまかれる。(略)
 「明確な解決」がいつでも最良とは限らない。(略)日本は今後も半永久的に、「領土問題」を抱えて国際社会で生きていかなければなるまい。それは必ずしも、不幸なことではない。曖昧さこそが、ときには最良の解決方法でもあるのだ。

とはいえ、当事者(外交担当者)が最初から曖昧さを求めていては相手に足元をすくわれるわけで。第三者の目から見て結果的・客観的に「その当時の両国間のありようは曖昧なものであった」と述懐するようなバランス関係が、将来にわたって最良の"解決状態"であるのかもしれませんね。それをいつ振り返ることができるのか、誰が述懐するのかは、わかりませんがw