趣味の才能

蛇の生殺しのようなゴールデンウィーク2006年度版も終了し、手持ち無沙汰のあまり狩りばかりしていたラグナロクのモンクが、94レベルに上るかどうかというところの来週から新しい仕事が始まるそうです。もう日がな一日ラグナに興じることもできなくなるのだなと思うと一抹の寂しさがこみ上げてきますが、こみ上げてくる時点でそれは人としてかなりダメだろうと思うような、決定的なような。定期券を買ってこなくちゃ。
仕事や社会的な活動から離れ、自分中心で動かすことのできる時間を大量に得たとき、それをひたすら自己完結する趣味的な事柄に費やすことのできる人間は、きっと才能があるんだろうなと思います。趣味の才能が。エロゲーをプレイする、アニメを見る、音楽を聴く、そしてブログを書く。僕に割り当てられたていたらくな趣味は、時間があればいくらでもこなすことができるはずのものだけれども、時間がありすぎると、不思議なものでかえってやる気が削がれてしまうのです。
それらの趣味に取り組んでいる自分にそれほど高い価値・意義を見出していない、取り組んだところで何があるのだ、ましてや何かを見出す知識や能力が自らには備わっていない、時間があるなら価値・意義のある別の用途があるだろうという漠然とした疑い。クリエイティブな作品や世界を嗜もう、積極的に入り込んでいこうとする意識に随伴する普段着の視点、その軸足をそれらは不安定にし、てっぺんのまなざしを自分自身に差し向けてしまうのです。「だからお前は何やってんだ」と。
仕事や社会的な活動に従事していると、私生活で趣味に費やせる時間は自動的に縮減します。それゆえ優先順位をつけて取り組まざるを得なくなり、その優先順位が相対的に、趣味や取り組む自身の価値・意義を確定してくれるのです。「時間がない中でわざわざ取り組んでいる。だからそれは当然自分の中では高い価値があり、自らの意義は明白だ」、そう考えてしまえるわけです。
その"自動安定装置"が、仕事や社会的な活動から離れとめどなく自由な時間の中に落とし込まれた人間では、正常に作動しません。時間があればあるほど、趣味的な取り組み内容、もっといえば時間の使い方というものに対する価値や意義というものの確定に主体的に関わらざるを得なくなる。趣味や行為にまつわる結果のみならず、選択と、評価に至る全てのプロセスにおける責任の全てを、自らが背負わなければならないのです。
そこまで自覚した上で滞りなく趣味を遂行しているのか、自らの欲求を全肯定した上でただ夢中になっているだけなのか。どちらにせよ趣味の才能とは、時間があろうがなかろうが取り組みたい事柄があって、なおかつ時間があればあるだけ比例して深められる、深めたいと心底思える、価値に対する意欲と、意義を信じる心のしたたかさのことだと思うのです。自分がしたいと思っている事柄を、どこまで信じてあげられるかなんて、普通の人は考えないのかもしれませんが、僕は(病んでいるのか)考えてしまって、しかも信じるのに挫けてしまうわけです。
「僕って、阿呆だ…」。趣味の才能の欠如しているそんな自分を、膨大な時間の中で見つめ続けるしかない状態は、苦痛以外のなにものでもなく、この苦痛から逃れるためには、膨大な時間の大部分を社会に奉納するか、時間を消費しない存在へと"強制移行"させるしかないのでしょう。だからとりあえずは、前者。目的があるかないかの二元論で話をすれば、仕事や社会的な活動はその規定自体が目的と方法を内包したものであり、趣味は楽しむことが目的であり同時に方法であるともいえます。しかし、悲しいかな楽しむためだけに取り組めるほど無邪気ではいられず、とはいえ何かを得るために取り組むにしては、僕の趣味はあいまいで不埒なものばかりです。
だから、就職を機に自分の中の趣味を洗い出してみたい、時間の概念を再定義したいと思うのです。何がやりたいから何の時間を使う。僕はこの工程を、一切の企画も承認も報告も評価も為すことなく、これまでなーなーでこなしてきたように思います。ぐうたらするのが趣味で、ぼーっとするのが好きだというのでは、自らの人生と人類に対してあまりに不遜ですからね……。