図書館の本にアンダーラインが引いてあるのを見つけた。

図書館で借し出している本を汚すことは、疑いようのない悪いことです。公共の施設にスプレーで落書きをするのと同じ性質の行為であり、罰せられて当然のいたずらです。それは大前提として、図書館で借りた本を読んでいて、たまに特定の箇所にアンダーラインが引いてあるのを見つけると、嬉しいような、集中力が高まるような、少しポジティブな気持ちがしてくるのは確かなことです。
昨日図書館で借りた本を読んでいたら、ある箇所に線が引いてあるのを見つけました。悪いことなりに最大限慎み深くしているかのように、ごく薄い鉛筆の線。それはこの本が他の人にも読まれてきたというあたたかい痕跡であり、線を引かれた箇所がこの本の理解にとって重要であると、少なくともその人が考えていたということを知ることで、それは僕に思いがけず文脈を相対化する機会を与え、異なる視点で本の内容を理解することができるようになったともいえます。
耳をすませば」の原作コミックで、読書好きな主人公の月島雫が、図書館で借りた本の裏背表紙に貼り付けられた貸し出しカードに、「天沢聖司」という名前がいくつも記入されているのに気がつきます。そういうエピソードがありましたよね。
今となっては懐かしい裏背表紙に挟み込まれたカードは、その本が誰に読まれたか、どれくらいの人に読まれたか、そういうぬくもりとか過去とか、データに収まりきらない重いものが感じられて、その本自体の歴史書みたいなものだなと僕は思います。たった名前と日付しか書かれていないけれど、名前というものはその人のことを何よりも雄弁に語ります。「織田信長」や「西郷隆盛」と書かれていれば、それはもう十分すぎるほどの歴史を紡ぎ出すことでしょう。また、字というものもその人の個性を如実に語るものです。
それが、近年(いつかは知らないけれど)カード管理制からデータ管理制に移行していった。そこらへんの寂しさは「耳をすませば」の映画版や、「To Heart 2」の愛佳シナリオで描かれていたような気がします。効率を考えればパソコン管理に移行していくのは当然のことだとは思うけれど、効率とは別の観点から、裏背表紙のカードはなくさなくてもよかったのではないかなと個人的には思っていました。記録を残したい人だけ残していけるような、一言メッセージのようなものも一緒に残せるようなカードを挟めたら良いのにと、そう思ったのです。
本には伝えたい・伝えるべき内容があって、伝わっていったという事実を刻んでいくのが、そのカード。それはいわゆる歴史。啓蒙という概念の実施状況をスタンプにして記録しようとしたら、その一番近い形式がこの本の裏背表紙に付いたカードなんだろうと思います。もし読んだ人ごとに色が割り当てられて、その人が重要だと思った箇所に(何箇所までと指定された)アンダーラインを引くことが許されたら、その本は、色の変化という歴史の中で内容を変化させていく、「生きた」本になっていったことでしょう。だって、特定箇所に線が引いてあるかないかで、その本の理解は少し違うものになるからです。伝わっていく内容が歴史の事実の積み重なりによって少しずつ、確実に変わっていくのだとしたら、それは「生きている」ということに他なりませんよね。
汚されていくことが、本を生かしていくことになるんだなんていうと図書館員さんから怒られそうだけれど。僕は今読んでいる本の、一度引かれて一生懸命消しゴムで消されたような、ごく薄い鉛筆のラインと薄くなった活字を見ていると、本のいのち、個性のようなものを感じてしまって、愛着のようなものすら芽生えてしまっているんですね。
「本は生きている」、それを確かに証明するものとしてこの裏背表紙の歴史書は欠かせない存在だと思うし、「ハリーポッター」で出てくるような魔法書が実在するとしたら、それは本が生きてきたという歴史的事実の換喩であるべきです。何百年と生きてきた老木が知性を帯びるように、何百年と生きてきたから本だからこそ、魔法を帯びたとしてもそれは不思議なことではないという幻想が共同化されるのです。
けれど、「本が生きている」ということの事実を実感(手触り)として人々に与える役割としてのカードが、本から取り外され、図書館に収蔵される本に顕著だった個体としての本のありかたが、出版社から販売されている本と同じような群体として人々に認識されるようになった。すると、その歴史はインターネット上の批評や感想というテキストの形を借りて延命しているんだけれども、それは個々人が分散し各々単一・完結化したものでしかないわけで、「あの本読んだ?」「うん読んだ」、このあっけない横のやりとりで途切れてしまう、縦軸を失った歴史はそもそも歴史とは呼べないものです。
誰かから誰かへと読み継がれ、その時代において重要なセンテンスの変化を通じて広がり、深まっていく図書館という世界、啓蒙という幹を支点に広がる個性としての枝葉。その歴史は確かに本来目に見えないものであったとはいえ、その形見すら奪われてしまったとしたら、<彼ら>はもう生き長らえることはできないんじゃないでしょうか。
「大切な本」というときの個性としての本を、破棄し、一般に頒布されている無個性的な工業製品、群れとしてのデータ変換可能なコンテンツとして、図書館の本すらそうやって受け止めざるを得なくなった僕らは、「本が生きている」ということをまるで実感できなくなりました。図書館から借りてきた本という事実が確かであったとしても、そこに歴史の形跡を見いだすことができないとなれば、それはやはり無個性で、巷の書店に積み上げられている本と同じの、いのちなどないと類推してしまうんじゃないかと思うんですね。
パンティや女子中高生ではないけれど、僕は子どもの頃から、買ってもらった本や自分で買ったCDのジャケットの匂いを嗅ぐのが好きで、というか癖だったりします。それは、今考えると(今も気がつかないうちにやっていたりしますが)、本やCDという工業製品に個性を与える儀式のような気がするのです。「僕のものなら匂いを嗅いでもいいし、僕のものならどんな匂いか承知していなければならない」という使命感が働いていたように思います。そんな子どもじみた信念によって個性を与えられたものは、僕の愛着を享受する正当な資格を与えられる。誰のものでもない、僕の所有物だという個性を与えられることが、愛着であり、いのちそのものなのかもしれません。
長い間大切にされてきた人形は神社で丁重に供養されるように、愛着というものはものにいのちを吹き込みます。幼い子どもがとんでもないものを飲み込んでしまうのもまた、愛着を付与する儀式のひとつであるのだろうし、エロゲーの初回限定版をビニールに入れて丁寧に扱うのも、愛着を損なわないための崇高な保存作業であるのです。
つまり何がいいたいのかというと、いまさら本の裏背表紙に読者カードを再設置できないというのなら、本にふたたびいのちを吹き込み歴史を復興させるために、やはり誌面を汚すしかないのではないのかなということです。アンダーラインを引くこと、それは僕が匂いを嗅ぐのと同じような、本に愛着を与えるための行為ではないかと思うんですね。もちろん第一義的には、内容の理解を助け、論文を仕上げるための引用文献として役立ってもらう処置であるのでしょう。けれどそうすることで自然と得られる感触は、その本に対する愛着であって、愛着が深まると、一度返却してもたまに思い出しては「あの本は元気かな」なんて図書館で探してみたりする(カードがあれば「僕の名前が載ってる本だ。あれからこんなにたくさんの人が読んだんだ」となるんですが)。
極論すれば、引用するということ・アンダーラインを引くことは文節単位の個人的な愛着に他ならないのです。論文なり伝えるべき内容を執筆するには、まず理解していなければならない、理解するということ、それは誰のためでもない自分本位のことなのですから。理解するということ、それは理解したことを媒介した自分自身への愛着でしょう。なぜ人は学問や物事を深く理解したいかといえば、それはつまるところ自分のことを好きになりたいからです。
自分が所有する本は、僕の中で生きているけれども、図書館が収蔵する本は、みんなの中で生きていく。そこには出会いがあり、歴史があり、いのちがある。横軸と縦軸が絡まりあいどこまでも広がっていくそれはまさに、成長する概念イメージ。僕の読みくだすための作法が、他の人の読みくだすための作法に影響を与える。「読みくだす」を「詠唱」に読み替えれば、それって魔法そのものですよね。
今のデータベースは、まるで人のぬくもりを保存しえない不完全で非寛容な形式でしかないけれども、もし将来完全なデータベースというものが実現して、人のぬくもりすら漏らさず収録できる図書館の蔵書管理システムとして改められるとしたら、例えばある本を手に取るとそれを以前手に取った人の顔が頭に浮かんでくるような、テキストの分節に手を触れると、その箇所を読んだ人が思ったこと・感じたことが瞬時に頭に入ってくるような、そういう知性と感性が相互作用しながら積みあがっていく二重らせん状のライブラリがいいですね。
図書館の本はだからむしろ汚されるべきなんです。僕は美少女を汚すのが好きだけれど、図書館の本は人のぬくもりの発現としての汚れをやさしく受容する、その汚れ自体が何より市民個々人の歴史を刻み込む、時代の知性の変化を確証するための、生きる公共財であって欲しい。物語の本ではなく、本の物語。いろんな子どもたちに読んでもらうことでレベルアップしていって、冒険するうちに本の中の物語が進んでいく、本が主人公のRPGとか、あったら面白そうね(もちろんその本は美少女のインターフェースをしています)。でも火に非常に弱いのw