フィクションの燃料としてのリアリティ

読売新聞の記事に、旦那から暴力を振るわれている母親、からの虐待から逃れるために、小学4年の兄とふたつ違いの妹が、自分たちだけで児童施設にやってきたというケースが紹介されていました。僕の頭の中では、「これはギャルゲー的に使えそうな設定だ」とまず思ってしまうあたり、相当"やき"が回っておられる。なにせ、主人公がヒロインについて陵辱に走ろうが、母性愛を求めようが、はたまたオーソドックスな純愛。同じ苦しみを分かち合う妹に肉親以上の愛情を築こうが、そういう事情があるならば、酷く自然に感じられてしまう。そういう事情を理解できるはずがないからこそ、何もかもを自然として取り扱えてしまえるでしょうから。
僕らは結局、説得力とつじつまを求めているんだと思うんですね。僕らはいつも、あいまいな説得力を前に右往左往し、合わせようとする意思すら感じられないつじつまを前に地団太を踏む。ここがそうであればこそ、ありえないそれらをそこに求め、得られれば、その結果が善悪美醜どうなろうと、関係なく、遺留分程度の癒しは約束されるわけです。それだけでもう十分という場合が、最近多いかもしれません。

「あまり……その、なんだ……。そういう……殺し文句って……言うのか。そういうのは、その、慣れてないから、ヤメロ」 (「いつか、届く、あの空に。」より)

カッコいいことを言って、女の子が照れる。そういう他愛なく優しいつじつまが、恋愛という幻想の説得力を帯びた湿度が、もうそれだけで幸せになれるんだからなあ。実に安っぽい男ですよ。僕は。