生死の格差

 例えば社会人の平均年収が600万円だとか、大企業の社員の平均賞与額が90万円だとか、そういう数字を新聞で読むと、僕は死にたくなります。少なくとも深刻に気が滅入る。ちまたで流行の格差問題はよくわからないけど。あっちを見れば何を買ったかという話、こっちを見れば何を食ったかという話、買うのも食うのも金がなけりゃどうにもならぬ。オタクとはそもそも"購入者"である。こうも金がすべてのこの世の中で、金がないということは、つまり世の中に"いられない"ということじゃないか。
 しかし、金がないから1日の食費がこれだけで、金がないから服は着古されたものばかりでも、とりあえず、生きている。つらい情けないもう死にたいと思うことが度々あっても、無理矢理に殺されたりするようなことはない。そして世の中、自死を選ばなければならないような状況というのは、そうそうありえない。精神的状況を、肉体的対応へ連絡させるには、本人の決断が必要だ。本人の意思が絡む以上、原則的に強制性は認定できない。結局のところ、死にたいから、死ぬのだ。「死ななければならない」というセンテンスは、いにしえの武士ならいざ知らず、今日びまったく破綻している。
 しかし世の中には、本人の意思によらず、ごく自然に死んでゆく人々がいる。亡くなってゆく、まるでそれが摂理であるかとでもいうように。新潟県中越沖地震で死亡したのが高齢者ばかりだったという現実に、僕は当然の真理に気づかされてしまった。かく生死の格差に比べれば、それ以外の格差なんてどうということはないんだと。民放テレビが映し出す美味しいものや、アイテム、ファッションに、金がないから食べられないとか、買えないとか、着れないとか、そういう自らをみじめに思わせるたぐいの経済格差とは、そもそも国内メディアに消費欲を煽られた市民の自家発電的ひもじさに過ぎないではないか。ぶっちゃけ、それがどうしたというんだ。
 己の視点として、なぜか国内に留まっている格差意識を、世界に押し広げれば、そこには、1分に○人死んでいるというようなわかりやすくもおぞましい現実が、世の中が綽綽と待ち構えているのだ。1日1ドル以下で暮らしている人口は○億人とか、そういう現実を目の当たりにしたとき、好きなアニメのDVDが買えないとか(買う人はたくさんいる)、今回の夏コミは資金不足で見送るしかないとか(湯水のごとく資金をつぎ込む人はたくさんいる)、そういう自身の現状を、高所得者層と比較して勝手にへこむ、格差問題として認識して嘆いたり落ち込んだり情けなく思ったりするのは、なにか、なんだか、ものすごく失礼だ。
 正直、ある程度以上の経済力のある他人の振る舞いに羨ましさを感じないことはない。「自分は自分、他人は他人」とポジティブに開き直れるほど僕は清々しい人格者ではない。自分が満足できないから、他人が妬ましいのだ。満足するためには金が必要だという資本主義をもはや体質としている我々は、精神的充足感を得るためにも金を必要とする。考えてみれば滑稽な話だ。金のない人間は、満足できず、妬まずにはいられないから、格差問題を扱った書籍がベストセラーになるのだろう。思うように満足することがほとんど不可能だとわかっているから、せいぜい高品質の妬ましさを求める。誰も妬みたくなんてないのに、しかし満足できないということはそのまま、妬みとなってしまわざるをえないのだ。
 けれど、僕はこうして生きている。これについて自身に満足したことはないし、それについて他人を妬ましく思ったこともない。生きるということは、大気に似ている。こうして空気を吸っているし、有害な光線から守られているけれど、まるで意識していない。ありがたみなんてまるで感じない。しかしある日大気がなくなってしまったら、意識したりありがたみを感じる余裕もなく、僕らは存在していないだろう。
 「生きてるだけで丸儲け」、紗南ちゃんのセリフが今も心に残っている。
 死ぬことを考えると、生きてさえいればなんとかなるさと思ってしまうのは、逃げなのかもしれないけれど。死を選ぶほど短絡的にはなりきれない。人生を馬鹿にしてる、けれど馬鹿にはなりきれない。天性のこの中途半端さを許容してくれるのは、どちらかというと、死よりも生なのだ。