美味しい豆腐と、食べ慣れた豆腐

 バイトに行くのに、自転車がないんで歩いていってるのだけど、その途中に小さな豆腐屋がある。夜勤明けの朝7時過ぎに通りかかると、60歳くらいの恰幅の良いおじいさんが、新聞を読みながら豆腐を作っているのを見かける。僕は毎日必ず豆腐を食べる人間で、冬は簡単な湯豆腐、夏は冷奴にして食べている、根っからの豆腐好きだ。だから、鼻腔の奥に沈み込むような大豆の香りを毎朝提供してくれる、この豆腐屋がいつも気になっていて、たまたま先日、スーパーでいつも買っている豆腐を切らしていたのを思い出して、思い切って買ってみることにした。
 絹豆腐、1丁、130円。高いだろうとは思っていたけど、さすがに高い。いつも買ってる豆腐の50円からすると、もうこれは許しがたい高級品だ。しかし旨い。崩れるまぎわのやわらかすぎる造形に、国産大豆のほどよい味わいと生色の豊かな香り。これはいわば個性の豆腐だ。ひるがえって、外国産大豆を使った、箸にしなやかに乗る、本来の生っぽさを極力抑えた50円の豆腐は、いわば文明の味・無個性の豆腐といえるのか。
 130円が伝統の味。しかしながら僕は、明日には、スーパーの50円豆腐、賞味期限を1週間は確保できるこれをまさに1週間分補充しに行くことだろう。深く美味しい伝統の味があるということを脳裏に保持しつつ、僕は文明的な無個性の食で日々をなんとなくやり過ごしていくのを、諦観した種類の人間。"それなり"で"それらしい"モノに慣れ親しみすぎているのだ。
 ぜいたくとは何か、それは個性だ。個性的であるということは、羨ましいほどふくよかで、積極的に主張するということが、テイストの本質なのだ。レシピの個性はこのようにして益々膨張し、消極的な無個性は、食への興味もろとも反動して"どうでもよくなる"。ただ、興味があろうととなかろうと腹は減り、無個性の食とはたいがいカロリー過多であり、だから僕は太るのを止められない。はてさて、無個性(ただ)のデブに堕していくばっかりだよ。