SFとおたく

 「21世紀を夢見た日々 −日本SFの50年−」というNHK教育の番組を見ました。
 SFとか、僕には実際よくわからないし、著名なSF小説も読んでいないので、僕がこの番組について何か語れるようなことがあるのか、はなはだ疑問だけれど。オタクは果たして進化しているんだろうかと、番組を見終わって少し不思議に思いました。
 座談会に登場していた今敏氏が、かつてSFはそれ自体が革新的なことだったけれど、今ではそれが当たり前になっていて、もはやディテールを凝らないと映像作品として成立しない、というような意味あいの話をしていました。それは「複雑な手続き」として、つまり装置としての難解な機構それ自体が、SFにリアリティを与えるのだと。そして表現する内容も、より人間の内面に迫ったものになっていると。
 SFとは、決して身近ではないけれど、可能性という予感と、今はわからないという感覚だとすると。僕らはもはや、未来人とか宇宙人とか超能力者、宇宙服や宇宙船やワープなどを、「ありきたり」だと感じてしまうほど、わかりきってしまっています。それはフィクション上のことであるのは違いないのだけれど、この場合フィクション以外の要素を考慮することは意味がない(もちろんその能力もないけれど)。未来人がどんな人で、宇宙人がどこから来て、超能力者がどうなってしまうのかということについて、あまりにも多くの可能性を僕らは既にに経験済みです。
 リアルでは20世紀末に科学万能主義がうち捨てられ、フィクション上において、そのかつての誇りが埃となって悪と結びつき、それに打ち勝つためには心の強さが必要だというコンテクストがもてはやされている今日。冒頭客観に敗れ去り、苦杯を舐めるもついに客観に勝利する主観の姿に僕らはカタルシスを見出す。その中でSFは、しいていえば、例えばガイコツ柄のTシャツのようにちょっと悪ぶった"アクセサリ"にしかすぎなくて、それに拘るとしても、そうして描かれる、あるいは描かれようとしたものは、画期的な科学文明でも、華々しい未来予想図でもなく、多分に現世的で往々にして精神的な、人や人への思いです。
 あくまでもフィクション上で、僕らおたくがわからないものとして今日掲げているのは、自分以外の心であり、はたまた自分の心であり、要するに人という存在そのもの。心とか存在とかがごく自然に剥き出される恋愛が、だから今日びおたくには十分SFだったりするのです。こころの時代におけるサイエンスフィクションは、人の心のありようについて、精神分析の難解な理論がリアリティを与え、スピリチュアリズムによって無原則の救いを与えてくれる、腰掛けるだけで気持ちよくなれるマッサージチェアでしかないのかもしれません。
 はたして気の効いた小道具として存命しているのか、それとも人間の存在(自意識)という哲学的な命題に足を踏み入れているのか、サイエンスフィクションの現状を正しく認識できるほどの情報把握能力を僕は持ちあわせていないけども。ただそれは間違いなく、進化しているわけじゃない。
 進化とは優勝劣敗、優れた系統が劣った系統を滅ぼして高みに上っていくこと。僕は、僕らおたくはたとえ手に取ったとしても決して選ばず、一度廃れたものすらリニューアルして再咀嚼し、優れた存在に劣った存在が最後に勝つことにカタルシスを覚える。博愛的な優柔不断さと、判官びいき的な自己肯定欲によって、たまたま生まれたその時をただ留まり、その場で調子よくスキップを踏んでいるだけなのではないかと、思うときがあります。
 番組のエンディングロールで流れていた音楽は、映画「王立宇宙軍オネアミスの翼」のテーマ曲でした。ひとりのしがない青年と、大して美しくない女性のふれあいを通して、科学技術の光と影を描き確かな感動を与えてくれたこの作品。それは、短いけれど濃密なSFという歴史の文脈、拡散したというその精神の行き着く先にて、善きことと醜きこととを分け隔てなく鑑賞、観照したうえで感動できる素晴らしく稀有な機会を、僕らは放棄し、代わりに文明的な利便性を手に入れようとしている今日性を諷刺しているように僕には聞こえました。うがつのもいい加減にしろよという話ですけどね。
 善きことと醜きことは、水と油のように分かりやすく隔離され、それでいて都合よく配合され、ユーザーのその時の気分に応じて最適に消費される。好ましい気分や、望ましい思いを気軽に的確に味わうことのできるこのシステムを、一概に悪くいうことはもはやできないし、良くも悪くもその最先端ともいえるエロゲーの味を知っている僕が何をかいわんやだけれども。ただ言えるのは、自販機でコーヒーを買おうとして、コーヒーが落ちてきてもそこに感動はない。そのコーヒーが思っていたより美味しければ感動するかもしれませんが、少なくとも原初的な感動は、コーヒーを買ったはずなのにオレンジジュースが出てきたというような場合に、可能性として芽生えるものです。それは作品性と言い換えてもいいでしょう。
 サイエンスフィクションが第一次産業であった時代(1960年代〜)、オリジナルの加工を主とする第二次産業(1980年代〜)を経て今日、経緯的に同業異種といえる他ジャンルを、主語のない目的語としてひっくるめられて総合サービス業化、第三次産業化していったおたく文化。実際、秋葉原なんかは見るからにオタク向けサービス業の集積地ではないですか。欲しいものはたいていネットで手に入るのに、それでもわざわざ秋葉原に足を運ぶのは、「ご主人様」などと呼ばれるまでもなく、同士に、あるいは従業員に、おたくとしてのアイデンティティを肯定してもらう(させる)"サービス"を"買う"ためでしょう?
 「面白いモノがあるよ」「確かにこれは面白いね」。そしてふたりは次の瞬間には別のモノを見ている。商品に他ならないものに作品性を込め・見出されていた時代を懐古しつつ、商品といえるのかどうかも怪しいモノに商品性を込め・見出す時代を生きているのが、僕たち。「えげつない」と思う感覚すら、もうとっくに麻痺してしまっています。そんなものでしょと、そういうノリなんでしょと。
 ただ、人々が開墾や伐採、狩猟や採掘することを辞めたとき、原石から加工され一般に普及されている宝石を、どう目新しく宣伝し再び売りつけるかというとき、そこに歴史は生まれるんでしょうかね。もしかしたら僕らは、学問としてのSFの歴史が終焉し、一産業史として"変質"あるいは"勃興"する瞬間に立ち会っているのかも、しれませんね。それが幸いなことか、そうではないかは、それこそ後世の歴史家の判断に委ねるしか、ありませんけどね。