分析情報と想像する意固地

 今の若い人は、議論をふっかけると避けちゃう。宮台真司君によると、情報が氾濫すると、分析まで情報に頼る。自分の感性、情念でやれば思い違い、勘違いをするけど、最近は勘違いがなくなった。勘違いして「あー、しまった」と考え直すことが、想像力につながるんだけど。。(11/14付読売新聞朝刊)

 「リトルバスターズ」でしたっけ、keyの最新作。僕はこれをプレイしていないんだけど、ネットにあふれているキャラ萌えや感想をさらりと読み流しているだけでも、この作品がどういったものか、ある程度わかってしまいます。ネタバレとは少し違う、key作品に慣れ親しんでいるという特殊な見識に基づいて語られるファンの言葉は、前提としてスタンスが分析的で、萌え方が解釈的で、電子文字そのものが既に、ひどく的確な核心情報なんですよね。
 ネットにある、ファンの感想というそれそのものが、本人の意図はどうあれ、第三者にとって勘違いを生ぜしめる余地のない、確信的な分析メソッドに基づいているのです。既にある情報は、それを獲得した第三者にとっては、従前と変化のない同情報として排出することをプライドが許さなくて、だから分析しなくちゃならなくなる。
 同人作品というものは、原作があって、そのファンが作者となり、想像を膨らませて築きあげられたものというより、ただ、なんとなく、原作に積極的に関係するための一分析手法に過ぎないのではないでしょうか。
 想像するということが、妄想だと言いくるめられて、そういった分析態度の副メソッドとして再定義される。妄想として落とし込まれた想像が、共通項としてあらゆるぽんこつな要素を体系化した、その恩恵として、僕らはプレイしたことのない原作について語っても恥かしい勘違いをしないで済んでいる。
 それはそれである意味素晴らしく便利な安全装置だけれども、勘違いや思い違いすらできない、暴投する余地もないほど堅実な妄想に束縛されたせせこましい想像力は、本当のところで人の感性を衰弱させるんじゃないでしょうか。
 大学時分の僕が、ときメモに人生を狂わされて、わざわざそのためだけにパソコンを買って、web作って、ギャルゲーのテキストを提出していた頃(1998年当時)、ネットにギャルゲーに関する情報は極端に少なかった。だからこそ僕は堂々と勘違いをして、エロゲー排斥、ギャルゲー原理主義みたいなことをしていて、今思うとすごい勘違いだったな、恥かしいやつだったなと思うんですよね。
 でも、だからこそ「ギャルゲーはかくあるべし」みたいな理想を赤裸々に語ったり、恋愛ゲームを研究するぜみたいな天真爛漫な想像力を爆発させたりできた。
 情報が欠乏していれば、自ら想像して補うしかない。情報があふれていると、自ら分析し類型化していかざるをえないのだとしたら、僕らはそのように分析し類型化する過程で、欠乏している情報とやらを自ら創造的・独断的に決定していけばいいのではないでしょうか。想像する余地を残すということは、つまり、己の欠けている部分、渇望している心性をありのまま確保してやるということなのです。
 己が内面の分析まで情報化社会に委ねない心意気。それを僕は、せめてギャルゲーをプレイするときくらい見せつけてやりたい。誰でもない、僕自身にね。