はげ頭と脳こうそく

 庭の畑で夫がキュウリの手入れをしている。はげ頭で短パンで、最近は何の魅力も感じなかったけれど、大病を患ってみて初めて、この人の深い優しさを知った。
 私がトイレに夫を呼ぶと、どこにいてもトコトコやってきて、私のお尻をふいてくれる。お風呂も汗びっしょりかいて、私を入浴用車いすに座らせ、丸洗い。それが終わると、バスタオルでふいてから、衣類を着せてくれ、私は床につく。
 もはや夫なしでは私は生きられない。食事の支度も夫任せ。脳こうそくを発症した私に、塩分を控えカロリー計算をした食品を選んで買ってくる。
 入院中も毎日病院に顔を出してくれた。それが半年間も続くと、来るのが当たり前になってしまって、私はどうしてそんなに病院に来るのかと聞いた。
 夫は黙ってしまった。
 決して大恋愛で結ばれたわけではない。血のつながりはないのに、夫婦ってなんだろう。夫と私、夫婦って不思議だ。(読売新聞朝刊投稿欄)

 例えば今エロゲーをプレイしている世代が、年老いて、定年退職して、それでもエロゲーをプレイしているとしたら。
 どう見てもランドセルが似合いそうなキャラデザなのに60歳と言い張るヒロインと、禿げて出っ腹で地域の行事に嫌々参加しているプライドばかり高い主人公が、若い頃を回想シーンで振り返りつつも(濡れ場は主にここ)、見苦しいまでの生々しいやりとりに人生的な感動をきちんと描くことができている作品なり、ジャンルが発祥していないものかなと、想像してみたのです。
 要するに、スカ○ロが描けるんだったら、介護だって描けるでしょということ。
 どう言い包めようと僕らはやっぱり生きていて。生きるということは老いることであって。エロゲーというものが僕らの自己中心的な欲望に忠実に沿って、群がって"生きて"いるものだとしたら。やはり、パソコン世代の僕らとともに歴史を刻んでゆくエロゲーの、老いた姿を想像するためのチャンネルを僕は失わないでいたい。
 夢を見たいのですよ。永遠の青春、恍惚としたフィクションにあって、よこしまで醜い僕らの、どうしようもない生身の人生という盤上からこぼれない、悄然とした幸せを。ゲームにおけるインタラクティブ性の地平は、際限なくどこまでも広がっているのだということを、僕は1プレイヤーとして、思わないではいられません。