選択でなく、自ずから受け入れるあの虚しさ

 銀座のデパートの福袋をゲットするために行列を並んでいる女の子たちをテレビのワイドショーで見ていると、有明まんが祭りの同人誌をゲットするために行列を並んでいるおたくたちのほうがよほど誠実だと僕などは思うのだけれど(服飾とは結局のところ他人を偽るためのアイテム)、彼女たちにしてみれは、妄想などという形で自分自身を偽ることに長けたおたくとは、キモイ以外の何者でもないんでしょう。
 銀座と有明のどちらの行列に並ぶかという価値観の相違は、つまるところ誰をだますかということに尽きる。僕は他人を騙せるほど器用ではないので、せいぜい自分をだますことに専念します。そんなんだから、と一般化するつもりはないけれど、おたくとは、この《こわれた》世界、自分しか変えることができないという現実をじゅうぶんわきまえて、自分のみを変える(狂わす)ことに努めることで、他人との関係を平穏・平準化することに成功したけなげな種族なのではないかと思います。
 イタイよりは、キモイほうがはるかにやさしい。銀座の女の子たちは主に異性にイタイ思いをさせるための"武器"を、われ先にと競って買い求めているのです。もちろん、騙されたけれど結果的に幸せになれれば重畳だという人生が待っているのかもしれないけれど、先ずその副作用に怖れ、選択肢にすら挙がらない(キモイ)ことでイタイを予防しているのだと、僕は思うことにしています。

 人は生きていく過程で、数々の選択肢に遭遇する。人はそこで、いずれかを選ばなければならないと思いこんでいる。そして選び取ろうとしている選択肢の先に想像力を広げ、恐れおののいている。怖れているんだ・何かを選び取ることを……。
 どんなことにだって、終わりはある。終わりがあるということは、……とても、素晴らしいことだ。人生において大切なものがあるとすれば……、それは選択肢なのだろう。無限の生命などでは無く……。

 選択肢を選ぶことができるのは、とても幸せなことです。それは「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」で嫌というほど思い知らされたもの。地球が滅亡すること、ちいさな愛すべき存在が失われることに対して何もすることができないということの虚しい苦しみを知れば、ささやかなものでも、決定的なものでも、選択する機会を与えられるということの何物にも変えがたい有難みを思い知ることになるでしょう。それでも、どうにもならなかったとしても。
 にもかかわらず、他人にとっての選択肢に挙がらないことで、選択としてではなく自動的に、選択する機会を放棄しているのだとしたら、それは「planetarian〜ちいさなほしのゆめ〜」で味わされた無限の虚無を、今一度、自らをして受け入れようとしていることになるのだということを、僕は意識しないようにしています。
 選択しようと、機会そのものをカットしようと、終わりはくる。けれど自らの狂気に終わりなどないのだ、ということを忘却することができなければ、そもそも妄想を愉しむことなどできないのだから。
 だから、僕は馬鹿なのです。他にもう言いようがないほどに。