赤ちゃんの無垢な動作に感無量

 産科医院を退院した妹が、新生児をともなってウチに帰省しています。
 狭い家、赤ちゃんの泣き声で熟睡できなくなるだろうと覚悟していたのだけれど、あれはあれで案外心地が良いものですね。ドラマなどで聞く録音音声などはただうるさいだけで、生で聞くのとまるで感じが違うのは、身内ゆえでしょうか。
 よこしまさがない純粋の泣き声というものは、聞く者をまっさらとした、あたたかい気持ちにさせてくれます。まさしくそれはいのちの声。少なくとも猫の鳴き声よりかははるかにマシだね。
 とはいえ赤ちゃんを世話するのはもっぱら母親と妹。猫も僕も遠巻きにそんな様子を眺めているだけです。
 面白いのは、四六時中鳴いてばかりいたウチの猫が、赤ちゃんが来てからというものとたんに大人しくなってしまって。赤ちゃんが泣き出すと、まるで母親が掃除機をかけ始めたときみたいにそそくさと逃げ出してしまうのです。
 得体の知れない生物が自分の縄張りに来襲し、対応に戸惑っているご様子。少なくともそれは生きている存在だと認識しているということで、ある意味興味深い。ま、衛生的に新生児には近づいて欲しくないので、しばらくそのままでいてくれると助かります。
 赤ちゃんが本能のまま泣いている、そのちっちゃな手と足が無造作にしなやかに振るわれるさまを眺めていたら、あまりに微笑ましくて、涙がこぼれてきてしまいました。なんていうんだろう、良質なフィクションを鑑賞しているときに抱くあざやかな感無量みたいで、しかしフィクションなどではない確かに今ここに息づいているみどりごの、とめどない生。
 人が人として存在し始めた大昔から、永遠の近似値回数繰り返されてきた、自然、人間、現実のあられもない奇跡を感得できる、ありふれていて貴い機会を、僕は、妹の旦那が仕事で忙しく見にも来れない中、こうしてぬけぬけと享受してしまっていいのだろうか。正直、赤ちゃんの泣き声を聞いてしまうことすら、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 そもそも、生後1週間経つかいなやの自らの赤子を可愛がることすら許さない社会とは、人間という種に対する許しがたい冒涜です。という遺伝子に詫びろ。