面白くないのにやってる?

 「好きなことって、放っておいても体が勝手に動き始めちゃう。でも、あまり好きでなくなったことは、ものすごい勢いで切り離すことにしているんてす。面白い面白いとやっていたことが、いつしかしんどくなる。面白くないのにやってるな、と思った瞬間が辞める時なんです。被害が出てもいいから撤退する。人に何を言われようと引いちゃうんです。そうすると、楽しいことばかりが残るし、また楽しいことが出てくることになる。何が好きかじゃなくて、何が嫌いになったかと考えて行動するのが僕のセオリー。ダイエットでも同じことです。抜群に美味しいのは最初の三口目まで、四口目に「まあ、確かに美味しいけど」と醒めた瞬間、もう食べるのをやめる。これができるようになった時から、すごく痩せられるようになったんです。
 僕が痩せてよかったことは、身体だけでなく、本当に身軽になって、またなんでも「辞められるようになった」こと。今、おもちゃのコレクションをどんどん捨てています。今までは、なんでもいっぱいあるのが幸せで、事務所もどんどん広くして――というのが幸せだと思っていたけれど、今は違う。昨日、買って来た棚を自分で組み立てて、本当に大事なものだけを飾り、いろいろセットアップしたんです。結構キレイになったんで、そろそろまた、引っ越す時期ですね」(週刊文春1月31日号)

 岡田斗司夫氏のこの話を読んで、僕が真っ先に思い浮かべたのはギャルゲーのことでした。
 もうずいぶんプレイしていなくて、お金とか時間がないから仕方ないとくくりつつ、「そのうちまたプレイしなくちゃ」と義務的に感じていたりもする。実は、ギャルゲーというものをそれほど面白いと思わなくなっているのかもしれません。面白いを既に喪失して、単に興味深いという意味のみ残存しているのか。それとも、ただ面白いと思える作品に出会っていないだけなんでしょうか。
 「本当に大事なもの」と氏は簡単に言うけれど、それを見つけるのが実はもっとも困難なことだと思うんですよ。それに、昨日は大事だと思っていたものが、今日はそれほど大事だと思えなくなって、でも明後日になったらやっぱり大事だと思っていたりするかもしれない。昔に買って、つまらなく思えてきたので売り払ったけれど、復刻版として再販されたらまた手元に置いておきたくなってきたというようなことは、誰にだってあるでしょう。まあ、ごくまれに。
 僕はといえば、「wind -a breath of heart-」。プレイした当時はくだらなくてすぐ売ったのに、なぜか今になってまた欲しい。
 人間なんて実に不確かな存在で、その抱く気持ちはまるで風にたゆたうしゃぼん玉のかたち。古いしゃぼんを吐き出さないと新しいしゃぼんを膨らませられないということはわかっているのだけど、しかし明日の僕が大切に思うものを今の僕は想像できません。だから、たった今大切でなくなったとはいえおいそれと捨てる勇気がもてない。これを今捨てることが明日の大切な出会いにとって必要なんだというひらめきに、確かな自信を持てないのです。
 だから仕方なく、太っていくしかない。自分にやさしくて、卑しんでいるから――。
 とはいえ、何が面白いとか面白くなくなったとかじゃなく、何であれ面白いと思えたということそのものが大切なんだと、一度面白いと思えた以上継続することにもそれなりの意義があるという反論も、それほど間違ってはいないはず。誰もが多趣味や博識を目指しているわけではないでしょうし、ここまでくると人それぞれの生き方ということになってくるんでしょうねえ。