思いやリレー

 自動ドアではなく、両開きのドアでした。
 コンビニに入ろうとしたとき、僕の直前に入っていった人がドアを開けたまま待っていてくれたんです。
 僕はそそくさと入って、
 「どうもすいません」
 パンを1個買って袋はいらないと告げ、ドアを開けて出ようとしたら、すぐ後ろから別の人も出るようだったので、なんとなくドアを開けたまま待ってみると、
 「どうもすいません」
 これがもし自動ドアだったら、ふたつの「どうもすいません」は出てきません。
 ――便利なものが、人のごくさりげない好意を伝えあう余地を奪いさっているとしたら。僕らは、「どうでもいいがそれならそれで都合が良い」という程度の便利さを手にするために、かけがえのない機会を犠牲にしているのかもしれません。
 お水が熱湯になるまで水道水を出しっぱなしにしているとき、「熱くないから」という理由で排水溝に直行する水のことを思う。もし給湯器という便利なものがなければ、その水は無駄にならずに済んだかもしれません。
 最近の学校現場でつとに叫ばれている「食育」。学校の敷地や近所の農地で児童たちが自らの手で育てた野菜を、給食にして出すと残飯が半減したというような話をよく聞きます。あまつさえ高校などでは、自分たちで豚や鶏を育て、それを解体し、調理して食べるという教育まで行われている。
 それらの活動は、食べるというただ一点のみで考えれば、馬鹿らしいほど面倒なことです。自分で育てずとも野菜や豚・鶏肉は商品としてちまたに溢れているのですから。
 それなのに、文明が進展していく過程で一般市民にとって一度は不必要なことだと思われたそれらが、今日は教育上たいへん望ましい、むしろ必要不可欠だとまで言われ始めています。
 農業や畜産業に従事する人たちへの感謝、いのちというものへの思いやり。
 一度は手放したが、その代償があまりに重大で致命的だったということ、かけがえのない機会のそのあまりの"かけがえのなさ"に遅まきながら気づいたというのでしょうか。
 しかし、市民農園なども流行っているとはいえ、まだまだそういった活動は特別であり、あるいは高尚な趣味の範疇を出ません。僕らは一向に野菜や肉をスーパーや商店街で買い求めることでしょう。そもそも話題にのぼること自体、馴染みがないということなのですから。
 だからこそ、自動ドアではなく、両開きのドア。
 自分で開けなければならないといってもそれほど面倒ではなく、しかもかけがえのない機会も復興しています。あるいは、21世紀になっても雨が降れば僕らは相変わらず傘を差す。「江戸しぐさ」でいうところの「傘かしげ」は、まさしくそのかけがえのない機会だといえるでしょう。
 得るものと、失うもの。あえて得ないことでむしろ大きなものを得ること。後者の、あえて得ないということを、日常生活においてどう"なんでもないこと"として人々に認識されゆくようにしていくかということに、僕らは、文明人としての知恵が求められているのです。