マスコミというものが好かれない理由

 マスコミというものが、思考・思想の方向付けについて多大なる影響を及ぼしていながら、当該人々にとってあまり信用・信頼されていないのは、彼らが本質的に"都合がよすぎる"からではないかと思うのです。
 マスコミが、その紙面なりメディアでマスコミというものの意義や使命について滔滔と語っているとき、その対象であるところのマスコミという存在の中心を占めているのは、いわずもがな自らが会社なのだというギラギラした自己主張。
 ひとたびマスコミが何がしかミスを犯し、国民の非難にさらされたとする、その事象を別のマスコミが指摘する際の対象とは、あくまで「一部のマスコミ」であって、いうまでもなく自らの会社は全くそのようなことはないのだということが言いたいという潜意。
 まるで目立ちたがりやなトカゲの尻尾切り。
 論理的ではないけれど確かにそれは臭ってくるものだから、僕らはマスコミに影響されるものだとしても、信用しようがないし、信頼することができない。つまり、好きになれないんですね。だいいち、裁判で負けでもしなければ決して謝ることがない会社を誰が好ましく思えるというのか。
 マスコミというものが本質的に、主観と客観の都合のよい使い分けを営利企業としての重要な感覚として備えているものなのだということを、読者はえもすると失念してしまうものだけど。一般企業が広告戦略を練るように、マスコミとはその紙面・メディア自体が広告戦略を兼ねてもいるのだということは、ご高説でどういい繕おうと拭うことのできない真実でしょう。
 中越沖の地震原発施設に火災が起こったとき、マスコミは明らかに放射能漏れが起きたと読者に伝えていました。記事の中身を全て読めば人体への影響は心配ないと理解できるのだけれど、見出しだけを読む分にはまったく疑いようがなく、それは放射能漏れという事実として伝えていた。
 爾後、外国の権威ある調査団が今回の放射能漏れがまったく取るに足らない軽微なものであることを発表したとき、マスコミはどう記事に編んでいたか。「確かに一部マスコミでは読者の不安をあおるような見出しを書いていたかもしれない。しかしそれは関係者が説明責任を果たさなかったからだ」と、そういう論法でした。
 その逆は?「原発関係者が説明責任を果たさなかったのは確かに不味かったが、情報が少ない中、憶測に基づいて読者の不安をあおるような記事を構成した私の会社が悪かった」と書いていたマスコミは果たしてあったでしょうか。
 もちろん、誠実な記事やタメになる特集、地域発の身近な記事など"マスコミ"などといっしょくたに括ってしまうのは乱暴だと思います。けれど、そもそも取材の姿勢というものから、自らが会社のマスコミとしてのアイデンティティを損なうような事柄について非常に敏感。
 明らかにミスを犯したと認める記事を掲載する場合でさえ、一見反省しているようで、よく読んでいくと、これまで散々語ってきたような「自らが会社を中心とした」マスコミというものの意義や使命にすり替わっていたりします。
 たまにいます。反省しているようで、よく聞いてみると、責任云々ではなく自分の能力や適性について語っていたりする人。
 彼にしてみれば、反省とは、自分の能力(の高さ)や適性(の良さ)を再確認する機会に過ぎないんでしょう。確かにそういう面もあります、むしろ前向きで素晴らしい考え方だけども、せめて他人のいないところでやってくれよと叫び出したくなります。
 ここまでくると、マスコミとは軽蔑すべきものなんじゃないかとすら思えてきますね。それはつまるところ、メディアリテラシーという面ではむしろ健全で、適した心構えなのではないのかという思いがけない"都合のよさ"は、意図したものではないのだから悪びれず有効利用させてもらうことにしましょう。
 なにぶん僕はけっこう、そういったものに影響されやすいクチなので。