私が料理を作るのは、貴方が食べてくれるから

 料理というのは素晴らしい、僕はつくづくそう思います。
 僕(貴方)が料理を作るのは、貴方(僕)が食べてくれる(食べる)から。この論理とも呼べない"信じ合い"に一片の疑念も差し挟めないというのが、むしろたいへん喜ばしくて。
 もちろん、自分が食べるように料理を作る「自炊」というのもあるけれど、この世でいちばん不味い料理は、自分が作った料理だと信じて疑わない僕からすれば、自炊とは原理的に美味しい"はず"がありません。
 料理を作るのが上手だから、客観的に美味しいのではなくて、自分のために作ってくれるから、自分が美味しいのです。
 美味しいという、思いやり。それは「食べる」という人間の本能と結びついた人間性であることから、不屈であり、たくましい。ギャルゲーのヒロインが作成する黒焦げのお弁当を主人公が平らげてしまうとき、僕は人間というもののやさしさとたくましさに感銘を受けてしまうくらいです(言い過ぎです)。
 NHK教育テレビで放映していた介護番組。
 それは何組かの夫婦が司会者や専門家を交えて語り合うというような内容のもので。それぞれの夫婦は、病気で片麻痺になってしまった奥さんが、退院後にどうしても料理がしたくて、本人の努力と創意工夫で巧みに料理に取り組み、それがリハビリの重要な動機となり、今では大切な生きがいになっているという意味で共通していました。
 身の回りのことすらひとりでは満足にできない、旦那の介助を受けなければならないのに、どうしてそこまで料理にこだわるのか。もちろん理由なんてほとんど意味はなく、ただ、一緒に暮らす、食べてくれる旦那がいるから、それだけで十分。理由がいらない理由を旦那もちゃんとわかっているから、お風呂や下の際には手を貸しても、料理についてはまったく関知しません。
 まな板に釘を打ち付けて、突き出したそこに野菜を留め、片方の手に持った包丁で皮を剥く。釘に引っ掛けたねぎを千枚通しで梳かし、包丁で切れば白髪ねぎの出来上がり(これは簡単だ!)。ついには洗剤についてくる計量カップを使って握り寿司を作るアイデアを披露されたとき、僕はめまいを覚えました。
 人間ってすげー。料理ってすげー。
 自立というのは、誰かに強制されたり、促されてするものじゃなくて、自分の意思でするべきもの。それはまったくその通りで、だけど現実は、家族や親族にこれ以上迷惑をかけられないという理由で、リハビリや自立に向けた訓練に日々取り組んでいるという方がほとんどでしょう。
 しかし料理を作るということ、旦那に美味しいものを食べさせてやりたい。これは誰に強制されるものではなく、促されたりするものでもありません。むしろ自分で作らなくても店に行けば、高齢者向けの、レンジで温めるだけで美味しく食べられる商品がいくらでもあることでしょう。
 しかし、理屈とか、効率とか、そういう次元での説明をいちいち必要としないのが、料理を作るということの本質であって。えてして「愛情の隠し味」とか、「手間暇かけて」という、理屈や効率を敢然と無視した領域に鮮やかな美味しさが宿るものです。
 私が料理を作るのは、貴方が食べてくれるから――。一片の疑念も差し挟めない、説明不要のまま誰もが共感でき、そして人間を深から突き動かすその衝動を、思いやりと呼んでいいんだということが何よりたいへん喜ばしい。同じ人間(いきもの)として。
 ――僕が以前勤めていた病院での話。
 若い作業療法士さんの発案で、リハビリの一環ということで入所者さんたちに料理に取り組んでもらうことになったんです。それがお好み焼き。僕もご相伴に預からせていただいたんですが、いかんせん粉っぽくて、冷めてもいたし評価の難しい味でした。
 番組に出演していた夫婦の旦那さんが、司会者に勧められて、奥さんが初めて作った計量カップ寿司を醤油もつけずに食べたんですが(醤油が用意されていなかった)。味の感想を求められて「なんともいえない味」と答えたとき、僕はあのとき食べたお好み焼きの味を思い出しました。
 お好み焼きはソースをたっぷりつけないと、ってそういうことじゃなくてw