ゆっくりできるということと、ゆっくりだということ

 NHK教育だったかな。
 ある、介護施設で働く男性職員について取り上げていました。
 その男性は軽度の知的障害をもっていて、これまでさまざまな会社で働いてきたけれど、「作業スピードが遅い」という理由で辞職を余儀なくされ、職を転々としてきたあげく介護職員になったのですが。しかし施設利用者の間では人気ナンバーワンだというんですよ。
 「彼に世話して欲しい」と口々に言う利用者たちに理由を尋ねてみると、それは彼の動作がゆっくりだからだというんです。
 利用者の動作に合わせてゆっくり介助を行うなどごく初歩的なことだし、別に彼でなくても、介護職員なら誰だって当たり前のようにしていることでしょう。
 けれどそれは違った。むしろ我々の思い上がりなのかもしれません。
 ゆっくりできるということと、ゆっくりだということの違いを、僕ら健常者は同じことだと認識してしまいがちだけれど、それは異なることなのです。
 健常な介護職員は、本来であれば速い動作でこなせるのだろうけれど、相手はそうできないからそれにあわせてゆっくり介助しているということを、利用者は感覚的に嗅ぎとってしまうのでしょう。自分に気を使ってくれている、それが仕事だとはいえこちらがもっと機敏にできれば他の利用者の介助に回ることもできるだろうにと、申し訳なく思ってしまうのを抑えることはできません。
 ゆっくりできるということは、ゆっくりとしかできない人にとっては、最小限のわざとらしさを免れることができないのです。
 けれど知的障害をもったその男性職員は、気を使うでまでなくそもそも動作がゆっくりなんですね。だから利用者は気兼ねなく、自分のペースで、ゆっくりと彼の世話になることができるのです。ゆっくりであることにくつろぐことができる(=ゆったり)、介助される側としてこれほどうれしい心地はないだろうこと想像に難くありません。
 卑下したり馬鹿にしているのではなく、劣っているからこそ優れているんだということを、キレイゴトではなく事実として見せつけられたとき、天職という言葉は、才能のあるなしではなく個性そのものに付与される称号なのだということをつくづく思わされました。
 才能がないからダメだとあきらめてしまう論理は、己の個性というものを侮辱している。そして、才能とは何なのかという問いかけから始めることを認めてくれる職業は、人間性を高め豊かにもする素晴らしいものであるけれども。理不尽なるかな、世の中(というか日本)とはえてして、そういう職業ほど賃金を低め生活を貧しくするのです。
 「人間性じゃ飯は食えねーんだよ」
 あー嫌だイヤだ。資本主義なんてクソくらえ、ですよ。