メガ文字化による疲労増大

 読売新聞の文字が大きくなって、1週間が経とうとしています。
 僕は正直、読みづらくなったと感じています。読みづらいというより、読み難いと書くべきでしょうか。
 文字が大きくなったのだから、視力の衰えた方や高齢の読者は読みやすくなったでしょう。しかしそれに伴い文字数の制限がいっそう厳しくなることで、新聞的表現の悪弊がより強くなったと思うのです。
 ――新聞(記事)的表現の悪弊。
 なんていえばいいだろう。例えば、溜まったビデオの録画を手早く消化するため2倍速で視聴するような。それが3倍速になったような今回のメガ文字化で、ますます切り詰められ飛び飛びとなった表現は、読解する際にけっこうな労力を要します。
 つまり、詰められ飛ばされた本来そこにあるべき表現を、読者は想像しその都度埋めながら読み進めていかなければならないのです。というより僕の頭が悪いからか、普通に読んでいって、読み終わった後に「はて、この記事はいったい何が言いたかったの?」と首をひねることが多い。
 一部のコラムや読者投稿はそれほどでもないんですが、記事という記事は多かれ少なかれこういう状況に陥ってしまいます。なんだか小麦粉に卵を混ぜないで作った衣で揚げた天ぷらみたいに、粉っぽくてぱさぱさしている感じ。
 新聞記事というものは、基本的に不親切です。字数制限という宿命により、表現上の読みやすさより紙面上の都合を優先しているのは間違いないんですから。まあ仕方ないといえばそれまでなんですけど。
 週末に溜めてしまった2日分の新聞を読み終えた後、他媒体のテキストなどを読んでみると、それがどんなに難解な専門用語を駆使したものであっても、その基本的な読みやすさに感激してしまうほどです。
 まあ、感激したところで本など全然読まないわけですが。これでライトノベルとか読んでしまったら、そのあまりの潤いっぷりにどうにかなってしまいそうです。
 新聞と一般書は、そもそも根本思想が違うのではないかと思うんですよ。一般書は何より読者に理解してもらわなければ始まらない。新聞はまず毎日発行しなければ意味がない。
 事実があるとして、熱を通しただけの新聞記事。味つけを施したのが一般書。食べやすいのはどちらかだなんて、わかりきったことです。
 僕はきっと重大な勘違いをしているのでしょう。新聞は決して読み物じゃないんですよ。新聞は新聞以外の何物でもない。むしろ、けっこう気をつけなきゃいけないメディアで。
 僕らにはつかみようがない事実があって、それが新聞社謹製の結論に直結している。申し訳程度に添えられた論理は、しかし字数制限を言い訳にスカスカで。その"やっつけ仕事"を読者側が、読解上の暫定措置として任意に補修していく、それこそが結論そのものの読者自身に対する説得力を高めてしまう罠なのではないでしょうか。
 自分は間違ったことはしない。
 記事の本来そこにあるべき表現を想像し、読み進めるために労力を注いで修繕しているのは、そうして出来上がってくる結論が正しいからだという認識は、せっかく注いだ労力がもったいないからというコスト意識と完全に切り離すことができるでしょうか。自らのプライドから完全に独立していると言い切れるでしょうか。
 好きな女の子のために身も心も尽くし、経済・時間的資源を彼女のために費やせば費やすほど、彼女のことがますます好きになっていくものでしょう? しかしだからといって、彼女も自分のことを好きなんだということの根拠にはならないわけで。それが立派な根拠になると信じられれば、本人はとても幸せなことだし、誰かにとってはたいへん不幸なこと。
 果たして真実には、情けも容赦もありはしません。
 僕は、読売新聞がメガ文字化したのを機会に、「適当に読む」あるいは「読み飛ばす」というスキルを習得しようと思ってます。興味のない記事は、とりあえず見出しと冒頭を読んで、逆説の接続詞がある行と最後の行だけをチェック。そうすると記事の全体像がだいたいつかめますね。
 新聞で得られる知識など、しょせん「なんとなくわかった気がする」程度のものだという自覚さえ失わなければ、新聞というメディアと健全につきあってゆけるでしょう。などという似非新聞論はともかく、メガ文字化のおかげで読者投稿の数が減ってしまったのが残念でなりません。あれはこのブログの良質な"ネタ狩り場"だったのになー。