誰の未来のための卒業文集

放火しそうな人 橋の下でくらしそうな人 卒業文集に生徒名掲載

 卒業文集に、生徒同士が抱いている印象をアンケートしランキング形式で発表するコーナーを設けるのは、意外とどこでもやってることなんじゃないかなあと思います。僕も中学の卒業文集であったしね。
 そこで例えば、「かわいい人」「かっこいい人」「頭のいい人」というポジティブな項目ばかり並べられたランキングで、平凡で目立たないクラスメイトの幾人かはランキングされないという場合と、ポジティブな項目だけでなく、今回の学校で問題になった「将来橋の下でくらしそうな人」「KYな人」「末期な人」といったようなネガティブな項目も含めバランスよく設定して、クラスメイト全員がいずれかのランキングに名前が載っているという場合の、果たしてどちらが、10年20年後に振り返ってみて得るものが大きいだろうかと思うのですよ。
 自分のこととして考えれば、クラスメイトにどう思われていたのかということがわかるという意味において、それがたとえネガティブなものであっても、ランキングされないよりはうれしいと思うんじゃないかな。
 どんなネガティブなエピソードであれ、「あの頃は確かにそんな感じだったよなあ」と微笑ましく振り返れるような、精神的にゆとりのある未来像は、とても望ましいもので、卒業文集とは、そういう明るい未来の自分をイメージしながら思い思いに制作されるものです。
 というより、そのクラスが集計した「将来橋の下でくらしそうな人」「KYな人」「末期な人」という項目は、そのクラス的にはネガティブなのではなく、マニアックということではないでしょうか。
 クラスメイト全員がランキングされるよう生徒なりに配慮とセンスを発揮して、されど遺憾ながら多少危うく生々しいランキングになってしまい、それを見た保護者が訴え出た、そういうことでは? この記事からだけでは判断できませんが。
 そのクラスの独特な味わいをそこはかとなく把握している学校関係者は、このランキング企画を容認できたけど、保護者はそれを知りようがなかった。
 そこで、どのクラスも持っている独特の雰囲気を保護者は知るべきで、そのためには学校側の開放的な姿勢と、家族・地域がPTA活動等を通じ日常的に、学校や自分以外の子供たちと交流していくことが求められるなどという、もっともらしく無責任なフレーズを持ち出すつもりはありません。
 ただ、卒業文集とは、卒業する生徒たちがそれぞれの未来に向けて、今さっきまで屈託なく話していたことを雰囲気もろとも封じ込めた貴重なアイテムであり、だいたい外野がどうこう言うべきものではない気がするんですよ。
 もちろん、その独特の味わいとやらが一方でいじめを醸成する土壌にもなりうるわけで。無理に介入すれば自然な雰囲気が損なわれ、けれど温かく見守っているだけでは取り返しがつかなくなってしまうかもしれない。とても難しい問題です。
 とにかく、卒業文集に特定の生徒を傷つけるような内容があったという場合、その卒業文集に携わった者のチェック体制を批判するのではなく、そういった内容が掲載されるに至った、その生徒を取り巻くクラスの独特の味わいをどうして修正できなかったのかという問題をこそ反省すべき。
 しかも、反省したところで少なくとも今回卒業する生徒たちにとってはまるで意味がなく、無難な対応のつもりで卒業文集を生徒から回収し、該当箇所を削除したものを再配布することは、意味がないどころか卒業文集としての価値を台無しにしてしまうものです。
 思春期の屈託のなさという永遠の宝石はすでに汚された。彼ら・彼女らは10年後20年後に振り返ったところで気まずい思いしかしないだろうし、そのうち振り返ること自体を避けてしまうかもしれません。もったいない、そう思います。
 小学校に、こういう試みがあります。
 クラスメイトに「うれしいこと」をしてもらったとき、カードに互いの名前とその「うれしいこと」の内容を書いて箱に入れる、それを先生が集めて生徒それぞれに備えてあるファイルに入れ、本人が書いた作文や絵なども収めて、面談などの折に保護者もまじえて一緒に見るという、教育版パーソナルポートフォリオというものです。
 そのカードには基本的にネガティブなことは書いちゃいけないんだけど。中学を卒業し、ゆくゆく実社会へと巣立っていって、自分という人間の良い面と悪い面を客観的に見つめることのできる胆力を持つに至れば、卒業文集の定番コーナーともいえるクラスメイトランキングが多少危うく生々しくても、「総理官邸に放火しそうな人」にランキングされていても、それは自分という人間、あるいは人生における貴重な糧となりうるのではないでしょうか。
 もっといえば、お世辞にも写真映りが悪かったり痛々しい作文が掲載されていたりするのは、この先いい思い出としてそれを清々しく振り返れるくらいの器量ある大人になるんだという誓いであり、満ち足りた将来の担保であり、ゆえに卒業文集なんて多少ハメを外してあるくらいがいいんです。道徳上・教育上好ましいものである必要はないんです。
 それが、偉い人にはわからないんだろうなあ。
 まあ、凶悪事件が起こるたび決まってワイドショーが、犯人の卒業したクラスの卒業文集をどこからか入手してきて、犯人の書いた作文を「いかにも凶悪犯が書きそうな作文ですね」とか「犯罪心理学的見地から言えば」などともっともらしく分析してばかりいれば、わかっていてもわからないフリをするしかないんでしょうけど。