お袋の味と、シーチキンご飯

 長男が一人暮らしを始めて半年がたった。女手一つで2人の息子を育てるため、つらくても正社員として採用された職場で仕事を続けてきた。
 多忙を極めたころは毎日終電まで働き、休日出勤もしていた。恥かしいけれど、息子たちの食生活は散々だったと反省している。
 事実、「お袋の味ってある?」と聞くと、苦笑混じりに「ないね!」と即答。
 その息子が家を出て、時々届くメールは、意外なことに私の手料理の作り方を尋ねるものが多い。レシピ本などにも載らない、大根の葉と油揚げのいためものや、ゆでたジャガイモをアンチョビーであえたものなのど、"手抜き"メニューばかり。
 それでも、私が作っていたものを息子が食べたいと思ってくれることがうれしい。彼の未来の食卓に、私の粗末なレシピが並んでいたら、何より幸せに思う。(読売新聞)

 あぶらげ繋がりというわけではないけれど。大根の葉と油揚げの炒め物はけっこう有名なレシピだし、卑下するほどのものでもないと思います。ウチでもたまに作ってくれるし、好きですよ。
 お袋の味っていうと、サトイモの煮っころがしといった煮物や、深い味わいの漬物など、味付けが容易でない、手間のかかる郷土料理的なメニューをイメージします。それは事実という場合ももちろんあるんでしょうけど、実質的にはドラマなどの影響による刷り込みによるものなんじゃないかと思っていたりします。
 この記事を読んで思い出したのは、子どもの頃によく食べた「シーチキンご飯」です。
 レシピといっても大したものではなくて、缶詰のシーチキンをボールに開けて、こしょうと醤油を入れてかき混ぜ、それをお茶碗に盛った温かいご飯に乗せるというだけのもの。最後に卵の黄身を落としたりしたら、それはもうとても美味しい。
 これは、納豆嫌いの僕にと母親が考案したメニューだと思われ。たまごかけご飯、豆腐混ぜご飯と並び「三大ご飯ぶっかけメニュー」のひとつとして、僕にとっては思い出深い「お袋の味」です。
 この投稿記事にあるとおり、お袋の味というものは本来的に、味付けが難しかったり、手間がかかる料理というわけではないんだと思うんですよ。ただ、「お袋の味」という概念の誕生したのが、文明がいまほど発達していない、ある程度作り手の技量を必要とする、作り手によって味が変わるメニューしかない時代だったというだけで。
 肝心なのは、母親が作ってくれた、僕はそれを食べるのが楽しみだったという記憶。それさえ確かならば、「お袋の味」に関して、メニューが何で料理的な難易度がどうなのかといったことは、些末な問題に過ぎないのではないでしょうか。
 僕はむしろ、外食産業や惣菜市場が充実の一途を辿る今日、自宅で料理をするという文化そのものがさらに廃れていって、いずれ「お袋の味」というものが、やれ母親がよく買って来てくれた何丁目のスーパーの惣菜コロッケ、よく家族で食べに行ったラーメン屋のネギチャーシューメンと普通に言われるようになっても、寂しさを感じたり、悲しさやけしからんと表明するような事柄ではないんだと思うんです。
 母親が用意してくれて、あるいは連れて行ってくれて、僕はそれを食べるのが"楽しみだった"という記憶さえ、確かならば。「お袋の味」に関して、それ以外の問題はどこまでも些末な問題に過ぎないのですから。