冴えないスナックと、地味な焼肉屋

 自宅からどこに向かうのでも大抵通りかかる場所に、冴えないスナックと、地味な焼肉屋があります。
 そのスナックは、店先に置いてある鉢植えから外装全般、果ては店名に至るまで徹底して冴えてなくて、しかも店の入り口がちょっと奥まったところにあるものだから、一見さんはなかなか入りづらいだろうなあ、まあ僕自身スナックに入るようなキャラじゃないのでどうでもいいけど、と思っていたところ。
 いつもは開いているはずの時間なのに、明かりが消えて数ヶ月。
 以来あの店名を表示するネオンが灯っているのを見かけたことはなく、確認したわけではないのですが、どうやら閉店したようです。
 その焼肉屋は、牛のアレ騒動以前であればいたるところにあった、ごくささやかな個人経営の焼肉屋。店名は「めぞん一刻」の住人にいそうで、こちらはちょっとセンスがいい。外から覗くと中は座敷が4つ。たいてい店主らしきおじいさんが座敷のひとつに"どかり"と腰を下ろし、暇そうにしてるか新聞を読んでいるかなんですが、たまに焼肉の匂いがしたりすると、「ああ今日は客が入っているのだな」と勝手に微笑ましく思っていたところ。
 いつもは開いているはずの時間なのに、明かりが消えて数ヶ月。
 以来あの店名を表示するネオンが灯っているのを見かけたことはなく、確認したわけではないのですが、どうやら閉店したようです。
 ――住居併設の、どこか隣近所的感覚の抜け切れないスナックと、焼肉屋
 この2店は、一昔前であればきっと、その地区の自治会活動の定例打ち上げ会場、つまり隣近所の溜まり場となっていたに違いありません。
 例えば僕が、そういう文化に親しみを覚えるような社会的地位、年齢、あるいは心の余裕を持ちえたとき、きっと一度は訪ねてみるだろうし、感性が合えば定期的に通うようになって、「常連」と言われることに面映い思いをしていたかもしれないなあと、意味もなく想像(妄想)していました。
 もちろん、そんな店は他にいくらでもあるだろうし、僕の住む地域でもそうです。替えはきく。まったくその通り。
 しかし、営利目的の一企業が撤退するというのとはわけが違うんです。なじみの客やたまの新客を、まるで道すがらたまたま会った近所の人と軽く世間話をするように、もてなし、もてなされる――。
 客も店員も決して日常と隔絶されない普段どおりでいられる、"その場所にしかない"食べ物屋が、消えてゆくということなんです。
 それは、事実としての地域社会のみならず、可能性(未来)としての地域社会が失われていくということなんですよね。"自分の"地域社会といってもいい。
 人々が抱いている感覚としての地域社会というものは、決して曖昧な概念に依拠しているのではなく、具体的で実際的な場所に依存しているもの。
 それは自治会館であったり、消防団の詰め所といったオフィシャルと、地元の名士の邸宅であったり、近所の飲み屋・食べ物屋といったカジュアルの両面によって構成されているものです。
 「地域社会は崩壊した」などと、どの学説もメディアも、いちいち解説するまでもない事柄の一つとして織り込んで論を先に進めているだけれど。その現実を、目の前の出来事として、隣近所とのつながりをほとんど絶っているいまどきの若年世代の一員として振舞っていた僕でさえ、まるで季節が秋なのを知っていながら日に日にそれが深まってゆくのを改めて感じ入るような心地で、思い知らされる。
  自宅からどこに向かうのでも大抵通りかかる場所に、冴えないスナックと、地味な焼肉屋がありました。
 かつて灯っていたネオンは片付けられることもなく、けれどもはやただの民家でしかないその場所を、僕は今日も、ただ、足早に通り過ぎるのでした。