物を大切に使うということと、大切な物をもつということ

 新学期を迎え、わが家の小学生の子供たちが新しい教科書をもらってきた。ふと下の子の国語の教科書を見ると、2年前に上の子が同じ学年だった時に使ったものと似ていると感じた。
 試しに2年前のを引っ張り出してみると、表紙も内容も全く一緒。ページ数もピッタリ同じだった。1年間しか使わないので大して傷んでおらず、もったいないと思った。
 果たして毎年同じ教科書を全員に配る必要があるのだろうか。(略) 兄や姉がいる子は教科書をもらわないという選択ができないものだうろか。子供たちも、物を大切に使うことを身につけられると思う。
(読売新聞)

 物を大切に使うということは確かに大切なことだけれど、この場合の「物を大切に使う」という発想は、2年前に上の子が使っていた教科書を保管していた親のものであり、「物を大切に使う」ということを身につける機会を得たのも、この場合は親でしかないのだと思います。
 いくら内容に全く変わりがないとは言え、兄妹は新品を使っていたはずなのに自分だけその"お下がり"をもらったとしたら、本人は「自分は兄妹の"ついで"なのか」「大切に思われてないのか」と不安や不信を抱いてしまうかもしれないし、ましてや、隣の席の子は新しい教科書で自分だけ古い教科書だということに気づいたとき、本人がどう思うかということを考えて欲しいです。
 だから、兄や姉がいる子だけお下がりの教科書を使わせるだなんて適当具合ならまったく辞めるべきで、どうしてもやるというなら、いっそクラス全員がお下がりの教科書であるべきです。それに、物を大切に使うということを身につけさせたいというのなら、むしろ新しい教科書をこそ与えるべきだと僕は思いますね。
 一学期の初めにもらった新しい教科書が、三学期が終わり押入れにしまうとき、それが酷くくたびれていれば、それがたくさん勉強してきたんだということの得がたい記念であるし、まるで新品同様であれば、それが勉強そっちのけで楽しく遊んできた微笑ましい記念でもあるからです。
 そこには、単なる即物的・経済観念的な意味に捕われない、人生的な意味でより広く、深い意味での物を大切に使うということを得るまたとない機会となりうるでしょう。
 まあ極論すれば、教科書とは大切にされるべきでないものだと思うんですね。たとえば、当時好意を寄せていた別のクラスの女の子に教科書を貸して、返ってきた教科書の頁の隅に彼女のやわらかい字で「○○君、ありがとう」と小さく書いてあったりするのを、どうして"お下がり"として与えることができるものでしょう。
 物を大切に使うことと、大切な物をもつということ。大切な物なら、大切に使わないわけがありません。
 兄や姉が使っていた古い教科書と、自分のためだけの新しい教科書というのでは、そもそも次元というか、発想のジャンルが違いすぎるのです。それなのに、一石二鳥的なあさはかさで一緒くたにするのは正直、感心できません。現実問題、兄姉のお古の教科書を、素直に大切なものだと思える子どもがいるとも思えませんし。
 物を大切に使うことはもちろん大切な心構えですが、それは何にでも応用されるべきでなく、束縛されるものでもなく、ましてやそれがために大切なものが失われるとしたら、悲しすぎます。
 繰り返すようですが、新しく与えられたものを大切にするという場合の主体と、上の子が使った教科書を下の子に使わせるという場合の主体は異なり、物を大切に使うということを身につける機会を与えられるのは、前者であれば子ども自身であるけれども、後者は親でしかないのだということを指摘しておきたいです。
 そして、前者において親が、物を大切に使うということを折に触れて子に教える手間を省きたいがために、本来性質の異なる後者を代替として用いて済ませようというつもりならば、それはとんだ"ズル"です。
 ましてや、新学期初めにもらった新品の教科書。あの、上質なインクと紙が混ざりあいかもし出す、濃厚な工業的でありながら芳しいはじまりの予感として、身体全体に嬉々として駆けめぐってくるような、あのにおいを子どもたちから奪うだなんて、そんな人でなし、子どもの権利条約違反に違いありません。
 きっと!