しわしわ きちんとおる 元気にやり直す

「おり紙」
おり紙が わたしの指におられていく
失ぱいして またおり直すと
しわしわ
わたしも失ぱいすると
しわしわ
きちんとおる 元気にやり直す*1

 失敗しても、しわしわにならず元気にやり直せる人であったなら、運転手さんが、たぶん、きっと、JR福知山線のあの大惨事も起こらなかったのではないだろうかと思いました。
 不幸にもこの事故に遭遇し亡くなってしまった方々ひとりひとりの、ぬくぬくすぎる足跡をテレビで新聞で見かけるにつけ、涙を誘わずにいられないのは、電車という移動手段があまりに当たり前すぎて、そこに乗っていた人たちの日常があまりに当たり前すぎて、四捨五入して∞にしてしまいたいほど途方もない不幸によってそれらが失われてしまったということ、その肌身感覚の恐怖を涙滴によって束の間でもどこかに流し去ってしまいたいからなのかもしれません。
 人生というものが、人間という折り紙に日々刻々と寄せらるるしわしわを織り込んで創作される、精巧でまろやかな紙細工のようなものだとしたら、失敗して刻まれるしわしわも、成功して刻まれるしわしわも、きめの細かい人生細工を尊く彩るしわしわ。
 しわしわになっちゃったからって、人間という折り紙をゴミ箱にポイしちゃうようなことをしては、絶対いけない。
 きちんとおる、元気にやり直す。僕もそうありたい。

*1:4/28付読売新聞朝刊