生命はこの世に選別されて誕生する

 読売新聞でも先日取り上げられていた、着床前診断についての記事http://osaka.yomiuri.co.jp/mama/news/mw50513a.htm。だいたいこういう"事件"には、「生命の選別につながる可能性がある」というお決まりの批判が障害者団体から寄せられるけれども、生命の選別云々というテーマによる批判は、翻って、彼らによる「障害者はここにいるんだよ、忘れないで」という社会的ジェスチャーとしての意味しか持っていないように思います。
 様々な障害を負った人々に焦点を当てた、いろいろなドキュメンタリーを見ていると、「障害を持って生まれても幸せの形はあるんだ」という力強いメッセージを受け取ります。それはとても素晴らしい生の現在形だとは思います。けれども、そのことと、積極的に障害を持った子どもを産むということとは全く繋がりません。
 むしろ、障害を持った人は尊厳ある生き方を保障されるべきであるけれども、障害を治療する医療技術の研究発展とリンクして、障害を持つ新生児の誕生は、積極的に抑制していかなければならないというのが、現世的な認識だと思うのです。障害に対する対処療法的な手段が、医療だとしたら、根本的な対策は、障害を持った新生児を生み出さないことであるというのは、やはり自明の理だと思うのです。
 その、障害を持った子どもの誕生を抑制できる手段として、着床前診断という技術が高度の有効性をもって確立されているのなら、それは積極的に利用すべきだと僕は考えます。
 この常識的判断に反論するのは、もはや不毛で有害な感情論というレッテルを貼られるのを覚悟しなければなりません。そのレッテルを覚悟して、障害者団体が「生命の選別につながる可能性がある」としてこの手の議論に度々口をさし挟むのは、実は、生命の選別という倫理的な危機を真剣に憂いているのではなく、自らの存在と、その尊厳ある生き方が社会的に"脇に追いやられてしまう"恐れに対する不安が、あまりに巨大で切実だからなのではないでしょうか。
 生命の選別。確かに、優秀な男性から採取した精子が高値で売買されたり、美しい女性の卵子がもてはやされたり、「機動戦士ガンダムSEED」に登場するコーディネイター世界にも通じるような、人工的作為を帯びて誕生する生命に彩られた将来像、人間という在り様を根本から覆すような重大性をもって、今日においても、予感めいた不安を感じさせるに十分なものではあります。
 しかし、恋愛至上主義の跋扈する今日社会において、恋愛というものはとどのつまり「異性を選り好みする」ということであり、恋愛関係に基づいて妊娠・出産が行われているということからも、生命の選別は日常的になされている「なんでもないこと」のように思えてなりません。
 生命というのは何も、新しく誕生するものばかりではなく、現に今目の前に存在する異性もまた、生命に違いないのですから。
 「生命の選別につながる可能性がある」からダメだという思想は、究極的には、受胎と恋愛が完全に切り離されている文化的風潮のもと、政府によってランダムに指定された異性との間で、割り当てられた数の新生児を産み育てることが憲法に明記された国民の義務となっている世界で、誕生に関する公平性(全ての人間があまねく平等の能力的・社会的・環境的機会をもって誕生する権利)を侵すものとして、例えば、能力の優れた者同士や社会的地位の高い人間が、意図的に特別恵まれた新生児をもうけようとする際に、指摘される罪状なのではないでしょうか。
 誕生するということ自体が、理屈抜きで、この世に選別されていることだと思えて仕方がないので、だから僕には、「生命の選別につながる可能性」とその危険性ってヤツが、どうにも胡散臭くてしようがありません。
 少なくとも、望まない妊娠についての中絶処置や、中絶に繋がる出生前診断が広く行われている現況からしても、出生前診断に比べ着床前診断は妊婦に対する負担が軽いということも、遺伝病を持った親が健康な子を産む「権利の保障」という視点に立っても、「生命の選別につながる可能性」という指摘は、誰の幸せにも繋がらないあまりに空虚な言質だということが、相対的に浮かび上がってきます。
 その実体は、彼らの「障害者はここにいるんだよ、忘れないで」というメッセージであって、世論はそう汲み取るべきであって、僕らは、この議論を、現在と未来を車軸の両輪にして考え進めていかなければならないということを肝に銘じなければならないのです。
 と。いうようなことをふと思いついたので、とりあえず書き記しておきます。