生きるということの生々しい枠組み 臓器移植問題

 「脳死移植」推進派が8割…読売世論調査
 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050701it17.htm

 読売新聞に、臓器移植についての世論調査の結果が掲載されていました。概略としては、臓器移植全般について肯定的な意見が世論の多数を占めているということになります。脳死者からの臓器移植推進、12歳以下の臓器提供や、臓器提供条件の緩和、脳死を人の死とすることなど、臓器移植自体とそれに関連する事項全般について、多くの国民が賛成していると、この調査結果を見るとわかります。
 でも僕は、どちらかというと反対です、臓器移植って。ただ、僕が脳死状態になった場合には、その時点で利用可能な僕の全臓器を提供するつもりでいます。臓器提供意思カ−ドは、学生以来ずっと、必要事項を記入して財布の中に入れてあります。けれども、臓器移植自体については、反対です。
 つまり、僕が病か事故でもう臓器移植でしか助かる道がないといわれたならば、自然死を望むということです。僕に関するこの意思は、ほとんど僕の感情というか、気分に由来するものなので、潔いとか、死に急いでるとか、そういう話ではありません。ただ、僕は、そうなのです。
 けれど、僕が臓器移植に反対する言葉にできる理由は、その卑怯な論理立てに納得がいかないからでしょうか。
 脳死者からの臓器移植を進めるためには、脳の機能が失われた状態を「死」と定義しなければならない、臓器移植でしか助からない人たちが現にたくさんいる、だから、一刻も早く脳死を人の死にして、さぁ臓器移植を推進していこうじゃないか。
 これは、うがった見方をすれば、押し付けられた正義の論理、脅迫材料としての不幸。
 良心ある国民に対して"選択の余地のない"現実を見せつけて「死」の定義の変更を迫っている風潮に、僕はどうしても肯うことができないのです。結局理屈じゃないんですけどね。
 たった1つの医療技術のために、すべての人間にとってもっとも根源的で、すべての人間にとってもっとも個人的事柄である「死」の定義を変更してしまって良いものなのか、という疑念がどうしても拭い去れないのです。
 これは臓器移植自体の合理性や技術論的な話ではなく、とはいえ倫理や道徳、宗教が関わってくる話でもなくましてや経験談でもなく、あくまで抽象的で机上の、僕個人の好悪論に過ぎません。ものすごく意味はありません。
 僕は、臓器移植というのは、過渡期の医療技術に過ぎないと信じているのです。現実的に考えても、他人の臓器を移植するという医療がそもそも治療と呼べるのか、基本的に人の死を待たなければならないシステムで(ドナ−中心でレセプタ−の都合は考慮できない)、どんなに事前に準備を整えていようと常に緊急事態を要求する医療というものが一般化できるのか、どうしようもなくあいまいで危うい部分を抱えているのは確かでしょう。
 そもそも、「脳死は人の死」という定義が臓器移植に際してのみ有効であり、判定であり、臓器移植とは関係のない大部分の死に際しては、これまで通り心臓死をもって人の死とみなすというのも理解できません。すべての人にとって平等であるべき死が、ある人にとっては異なって取り扱われるということ自体、人間の死と生に対する冒涜ではないでしょうか。
 本質的に、何人たりとも死というものを"解釈"してはならないと僕は思っています。なんか胡散臭い話ですけど。
 脳死者の家族に、まだ心臓が動いていて血も流れているから生気の感じられる彼を、臓器移植するからって「死体」と思えと言われても、自主的に思おうとしても、それは無理な話でしょう。それが無理な話だと僕らにも想像できること自体が、医療の恣意で「脳死は人の死」と定義し直すということの無意味さと愚かしさと不可能性を如実に示しているのです。
 議論の余地のない不幸を目の当たりにして、良識ある市民として受け入れざるを得ない死の定義の変更に対する根源的な違和感と、ES細胞による臓器の自家培養といった、将来的に期待しうる「他人の死を必要としない」臓器移植実現への希望。
 そういった過渡期特有の不安定な現状で、ただ、国内で臓器移植ができないのでやむなく海外で臓器移植を受けようと、寄付金を募り渡航したはいいが、現地での環境変化に耐えられず手術前に死んでしまう子どもたちと、その家族にまつわる悲劇のドキュメンタリーで、最後に親が涙ながらに国に訴える、その一言で容易に方向付けられてしまった世論に勢いづいて、"やっちゃってもいいものなのか"と、思うんですよ。
 それじゃあどうすればいいんだ、現に臓器移植でしか助かる道がない人たちを見捨てて、ただひたすら医療技術の発展を教会か神社で祈ってろとでもいうのか、お前に愛する恋人か奥さんか子どもができて、そいつが臓器移植でしか助かる道はないって言われたら、それでもあんたはてめえの理屈を彼女によく言って聞かせるのか、と言われると、返す言葉はないんですけどね。
 そこはほら、机上の空論たるゆえんですから……。
 たとえば、道徳や宗教、教育から文化習俗までひっくるめた社会を総動員して、「人の心(あるいは魂)は脳に宿る」「だから脳死こそが人の死」という定義を人々の生理的レベルにまで植え付け、その上で「このまま火葬場の灰になるよりは……」という、日本古来のもったいない精神に訴えかけて臓器移植を普及させるとか……。
 そういう人をおちょくったような提案しか僕にはできません。ごめんなさい許してください苛めないでください……。
 臓器移植問題は、人の生と死が密接にかかわってくるから、というより人の死があることで生があるということだから、とても難しい。
 人類の系譜をみると、祖先の死があるから、今の僕の生があるわけで。僕の死があることで、もしかしたら僕の子孫が生を得るのかもしれません。
 食物連鎖をみると、僕らは地球上のすべての動植物を食い散らかしながらこうして生を得ているわけで。臓器移植について、他人の臓器を自分の体内に取り込んで(自らの体の一部とする、つまり喰う)生を得ることに違和感や抵抗を感じるのは、矛盾しているといえるのかもしれません。
 現状の人の死を前提とした臓器移植問題について考えると、どうしたって誰でもない自分の死というものを見つめざるをえなくなります。死の定義をどうするかという議論は、つまり私と貴方にとっての死という絶対境界線をどこに敷こうかという話であって、それはひるがえって、生きるということの生々しい枠組み、他者や世界とのきわどい境界石を建設することにつながるから。
 だから、僕はこの問題を考えることは好きです。結論は、たぶんいつまでも出ないと思いますけどね。
 だからこそ、臓器移植に関するTVドキュメンタリー等を見た感動の余韻を引きずったまま、死の定義変更を含めた臓器移植関連事項すべてを包括的に肯定してしまう前に、誰もが立ち止まってよく考えなくちゃいけないんじゃないかなと思うのです。
 これは、テレビの向こうの不幸な人たちに関する話ではなく、彼らのためにすることではなく、誰でもない自分たちに関する話、自分たちのためにすることなのですから。