暗い高校時代 いまだ後悔

 40歳代男性会社員。もう20年以上前の、高校時代の話です。正直言って、高校時代が楽しくありませんでした。いまだにそのことにこだわりがあります。

 男子校で厳しい校則に縛られていました。意地の悪い不良たちにいじめられることもあり、面倒な週番の仕事を押しつけられました。横柄な生徒が幅をきかせ、私のようなおとなしい者は小さくなっていました。教員も態度の大きい生徒に肩入れしていたように思います。

 世間には、校則も厳しくなく、自由な共学の学校に通い、楽しい高校生活を送った人がいるはずです。異性の友人もいたことでしょう。そういう人がうらやましく思われてなりません。

 「自分はなぜあんな高校を選んでしまったのか」という後悔の念に、どうしたら決着をつけることができるか、ご助言をお願いします。(埼玉・W男)


 私もあなたと同じ厳しい校則の男子校でした。頭髪は丸刈りで街に出る時も制服なので女子高生など見向きもされず、男女共学がうらやましく、いまだに高校時代の異性交際の話題にはついていけません。当時は何でこの学校に来たのかと何度も嘆息、卒業後も違う高校だったら人生、結婚相手も変わっていたかもしれないとさえ思ったり。

 でも、いつの間にかそんなこともなくなりました。後になってみれば楽しい思い出といったものではなく、毎日の生活の中で気がついたら忘れていたという感じです。ですから、改めて高校時代の後悔の念への決着のつけ方をと言われても、答えようがないのが正直なところです。

 それよりも、あなたはなぜ今、20年以上も前の高校生活にこだわってしまうのでしょうか。日々忘れ去っていく人もいるような過去の苦い体験を思い出し立ち尽くしてしまうのは、今の生活に何か原因があるようにも思います。もしそうであるなら、そちらの決着をまずつけるべきでしょう。

 (大森 一樹・映画監督)

 僕はまだ30代ですが、年を取れば取るほどかつての高校時代、「あのときこうしていればよかった」「もっと積極的に○○していれば…」と、特に異性関係についての不毛なこだわりに強く苛まれてしまうということなら、よくわかります。漫然とした後悔感、抽象的な喪失感、とでもいうんでしょうか。
 それは、第一線からは遠くしりぞいてしまっているものの、まがりなりにもアニメやギャルゲーといったおたく趣味に、僕自身慣れ親しんでいるということが、原因としてあげられるのかもしれません。恋愛的なやりとり(機微)が大好きで、ゆえにギャルゲーを嗜み、アニメもそういう系の作品を主に好んで見てしまうのは、自身の高校時代やそれに連なる年代において、恋愛を十分に、満足に経験できなかったからだ、という指摘を僕は確かに否定することができません。
 しかも、ギャルゲーや恋愛を扱ったアニメ作品に登場する主人公や、ヒロインは、たいてい高校生かそれに連なる年代。作品をとっかえひっかえ鑑賞していくたび、同じような新しいキャラクターに次々接していくたび、僕は着実に古くなり、離れているんだという実感に、ふとした瞬間塞ぎこんでしまうことがあります。「俺はこの年でいったいなにやってんだ」と。(このフレーズは、あらゆる意味で、僕を日々襲いまくる…。)
 近づくたびに、遠のいていく感覚。たとえば打席に入るたびセンターが延伸してゆく球場。バットを振るのは簡単で、バックスタンドを眺めてめまいが日々重くなる。僕は正直、楽しむために、好んでいるのか。それとも悔やみたいがために、むなしくなりたいがために、好んでいるのか――。
 楽しいとか、共感的な気持ちより、不本意だという思いのほうがリアリティがあって、肯定的より否定的な情念のほうがどうしたって強かで、その感覚をきっかけにすることではじめて正味ある感情移入が可能になっているのだとしたら、僕はなんて悪趣味な人間だろう。ネガティブな性質だろう。寝取られ系やダークなエロゲーをなんとなく遠ざけているのは、だってそれはちょっと洒落にならないでしょう?
 以前より薄々感づいていたことだけれど、"自分を重ねてみる"というプレイ・視聴スタイルは、年齢制限があるような気がしています。それでいて、自分を重ねないと十分に楽しめない仕組みの作品ばかり、世の中にあふれているような気がします。遠い日を懐かしんで万感たる幸福感に満たされるには、今日をたがやす努力を怠っている自分がいます。
 それはわかっている。しかし、たとえ今の生活にわだかまる問題を解決し、精神的な満足を得ることができたとしても、高校時代が不本意だったということは、永遠にくつがえすことができない。今幸せだと感じるということは、以前は不幸せだったということの抱き合わせ販売であって、あの時代がなにかしら不本意だったと信じているからこそ、今の時代を賑わす粒粒の青春ストーリーに、感動し、癒され、なごむことができるんだということは、身も蓋もない事実です。
 そんなつかのまの感動、ささやかな癒し、ひとときのなごみのあとに、厳然と横たわっているのは、最初からそこにあった、ひとそれぞれの不本意
 不本意だったから、好きで、楽しんで、改めて後悔して、むなしくて仕方がなくて、さらに好まざるをえない――。僕はこの好きと後悔の無限スパイラルから、いつか脱出することができるんでしょうかねえ。というか、脱出したいと本気で思っているんでしょうかねえ。
 そんな個人的なことを考えさせられた、読売新聞の人生相談でした。