捨てる箱、残す得体

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 今日は、コミケには参加せず、翠星石のフィギュアが入っていた箱を捨てることに専念しておりました。
 今年最後のゴミの日だということを母親に言われて、購入以来恥かしいやらもったいないやら先延ばしにしていたこの箱捨てを、ついに決行。雨はすでに上がっていたけれど、濡れたアスファルトの上に置き捨てられた翠星石フィギュアの写真が、なんともせつないことです。
 せめて、ご本尊はいつまでも大切にしてゆこう。今このテキストを打っているディスプレイのすぐ脇に、彼女はその高貴な微笑を浮かべていらっしゃいます。大切にしようだと?そもそも粗末に扱うことなどできようはずもありません。

 ずっと以前はてなのほうで書いたことがあると思ったけれど、僕は、部屋で散らかす場所を一箇所に限定していて、小さい机なんですけどね、書類や、購入したアイテムをとりあえずそこに載せておく習性があります。そうすれば、大掃除の際などにとりあえずそこを片付ければ手っ取り早くきれいにすることができるというすぐれもの。いや、すぐれてぐうたらな話なんですけどね。
 今年最後のゴミ回収日というのをよいきっかけに、簡易大掃除ということで今その机の上を片付けています。まぁぶっちゃけ捨てまくっているというわけなんですが。去年の冬と夏のコミケで買った同人誌を整理しつつ、サークルのペーパーを捨てるか残すか悩みながら(同人誌を買っていればそこに挟み込んでおけばいいんですが、新刊のなかったサークルや、同人誌を買わないでペーパーだけ貰ったりするサークルもある)、ふと、妙なことの書かれた紙片を見つけました。
 きっと読売新聞で気になった言葉を書き留めたものなんだろうけど。

 "他人の死から深い感銘を受ける"というのは、生者の傲岸な頽廃である。

 一個の光が闇の深さを伝えることもある。希望の結晶ともいうべきひとつの生命から、おびただしい死者の絶望が浮かび上がることもある。

 豚肉 酒 しょうゆ かたくり粉(下味)
 ナス炒め みそ・酒・さとう
 にんにく薄切り 長ネギ

 僕は、新聞を読むという習慣がここ何年か途切れることなくほぼ毎日続いているのは、新聞というメディアのフリージャンル性が性(しょう)にあっているからなんじゃないかと思っています。
 明哲な真理や、せい惨な現実、はたまた食欲をそそるレシピが、くたびれて劣悪なあの紙質に混沌として詰め合わされているという具合も、妙にエキサイティングではありませんか。
 本というものは、題名や帯、あるいは紹介文句・あらすじによってその内容はある程度推測できるけれど、その日の新聞の内容はまるで推測できません。
 言うなれば本とは、ジャンルによってきっちり分けられたコミックマーケットであり、新聞とは、フリージャンル・小規模の同人誌即売会。テキストとしての質や量、論の深みといった資料的価値でいえば、新聞は本に遠く及ばないだろうけれど、しかし想像もしなかった知識・見識と出会う可能性、本と比べて新聞はその間口の広さとして優れていると僕は思うのです。
 ましてや、読み終わった新聞なんて荷物の緩衝材に使われるか、焼き物の包み紙に使われるか、トイレットペーパーに交換されるかという"紙としてのあわれな宿命"に素直に殉じているというところも、いつまでも偉そうに本棚で踏ん反り返っている本のことを思うと、そのいじらしさがいっそ素敵です。
 本来であれば、新聞で読んで興味を持った内容について、本を読むことでさらに突き詰めてみるべきなんだろうけど。僕は、新聞で興味を持った程度で満足してしまっているのが問題なんですよね。ましてや、書評コーナーを読んで頭がよくなったような気になっているんだから、アタマ悪いよなあ。
 とりあえず、とはいえ他人の死から深い感銘を受けないようにすることは不可能だから、代わりに豚肉のみそ炒めを今度作ってみることにします。しかし材料だけ書き留めても仕方がないんだぜ自分、手順省いてどうにかなるほど料理の熟練者ないんだぜ自分。