「意味なし」不安症候群

 「メディアで編集された情報というのは、相手が意味を与えてくれているわけですよね。でも、生の体験は自分で意味をつかまなくちゃいけない。生の体験にはノイズだとか余計な物も入っているが、余計なことが意外と大事なんです」
 「ノイズはやっぱり生命の本質。コンピューターと人間の脳の最大の違いはそこなんです。コンピューターというのはノイズを生かせないが、脳はノイズを創造的な形で生かせる」(1/1付読売新聞朝刊)

 こうしてブログにテキストを書いていると、そのネタにと、日常生活で気がつくようなちょっとしたこと、意味のない思いつきに、けんめいに意味を持たせようと考えてみるということが癖のようになってしまっているような気がして。そういうのはなんだか窮屈だなと、思ったのでした。
 文章にする・言葉にするということは、意味を構造するということ。1エントリー1ネタ制ともいえるブログにとって、ノイズとはオチがついていない状態のことであり、意味とは、オチがあるということになりますか。洒落じゃないけれども、オチがつかないと落ち着かないw 
 誰もがネタを探し求めている1億総芸人時代、安直なネタ(意味)提示は許されません。何より当人が我慢ならない。意味の高度化(?)・先鋭化が急激に進展しています。
 そういう時代だからこそ、意味するところが分析されつくした古典、完了した感性(文法)といえるノスタルジー(懐古主義)が求められるともいえます。それらは骨太の安心を与えてくれるものだから。
 今日僕らは、「意味がない」ということが不安で耐えられないという"性質"を獲得してしまった。
 一方で誰もがインターネットを介した表現者となり、また一方ではメディアが意味を編集し、作品が感性を編集し、検索エンジンが情報を編集してゆく。僕らはネタを磨くためのより良い編集の仕方までも獲得しようと、もがいているのです。
 メディア、作品、検索エンジンのみならず、日常、生活までがネタを見つけるための"狩場"と化したとき、僕らの生そのものまでもがネタになってしまうんじゃないかと、とはいえそれ自体特に何の悲観も感慨もありはしない。むしろネタになるだけマシじゃないかと思わなくもありません。
 もしかしたら、自分の存在・人生は世の中にとって意味がないんじゃないか……。そんな根源的な不安が、小手先の日々に意味・オチ探しへと僕らを駆り立てているのだとしたら、それはとてもせつない話です。
 思えば、俳句とは「日常生活で気がつくようなちょっとしたこと」「意味のない思いつき」をそのままに創作するものでしょう。いうなれば、ノイズだからこそ美しい。無理にいじるとかえってあざとくなってしまいます。
 ただ日常になごみ、自然をめでる。ありのままが意味なんだと、だから、オチがつかないから僕の人生なんだと、完結して、安心して、胸を張っていられるような生き方には、もう戻れないんでしょうかねえ。