自由というものの意外な窮屈さ

 小学校の給食は班ごとに机を寄せて食べるが、中学校は弁当。子どもたちは「席は自由にさせてほしい」と主張することが多い。
 1学期早々、子どもたちの意見を取り入れて自由な席で食べることにした。「楽しく食べて欲しいから、独りぼっちになる人がいないように」と条件を付け、子どもたちも了承。自由席での昼食が始まった。
 男子は席が近くの者同士でにぎやかに、女子はそれぞれ2,3人で楽しそうに話しながら食べていた。子どもたちの人間関係も分かり、一人きりで食べている子もいない。この方法もいいかなと感じていた。
 ところが、それから少したった家庭訪問で、意外な話を聞いた。F子は学力も高く、さっぱりとした性格だ。弁当の相手は仲良しのG子。しかし、母親によると、最近学校に行きたがらないという。その理由は、その昼食の時間だというのだ。
 最初にG子から誘われたが、G子と2人で食べるのがだんだん負担になってきたらしい。「きょうはH子と話したい」「女子みんなでワイワイと食べたい」と思っても、G子の手前、それができないという。周りから2人はいつも一緒と見られるのも嫌だったようだ。だったらG子に、しばらく別の人と食べようといえばいいのにと思ったが、そうできないのが中学生特有の考えなのだ。
 この時期は、何気なく友だちと交わっているように見える反面、周りの目を気にするものだ。楽しく過ごしているように見えても、弁当の場面だけでなく友人関係や部活動など、どこかで窮屈な思いをしている。せめて昼食の時間くらいは気を使わずにいて欲しかった。だから私から「班ごとで食べよう」と提案し、2学期から実践した。子どもたちは最初は嫌がったが、次第に、和やかに弁当を食べるようになっていった。(読売新聞)

 自由というものは意外と窮屈だというお話。
 毎日外出するのに着る服をその度ゼロベースで選んでいては、毎日パンツ1丁でとことん悩まなくちゃなりません。だから僕は無意識のうちに着る服の順番を組んでいて、「昨日はこの服着て行ったから今日はこの服だな」といった"ルール"に従うことで余計な時間をとられないようにしています。
 そんなだから僕をいちばん悩ませるのは、初めて入ったレストランでなにを注文するかということ。ラーメン屋ならまずラーメンを注文すればいい。居酒屋でも「とりあえずビール」で済みます。けれど下手にファミレスなんて入ってしまったら、和洋中華なんでもバランスよく揃っているじゃないですか。和食特化・中華特化レストランにしろメニューがあまりに揃いすぎている。これにはほんとに参ります。
 そして、注文時に悩めば悩むほど、出てきたメニューはたいてい期待したほど美味しくないものですから、まったくいいことがありません。
 ――学校の昼食を誰と一緒に食べるかということ。
 この際服装やメニューより問題をややこしくしているのは、服は選ばれようがなかろうが服自身(?)何とも思わないけれど、人間はそうもいかないということ。そして、昼食を一緒にとる友だちはそれ以外の友だちに比べると友好度のグレードが高いということです。
 一度選んでしまえば、二回目以降選び続けるにしろ、選ばないことにしてみるにしろ、少なからず失うものがでてきます。人間関係において一方を選択するということは、一方を拒絶するということ。誰かと一緒の昼食を取れば、他の誰かと一緒の昼食を取らないということであるのは自明であり、そして残酷なことでもあります。
 僕らの生きている時間では、「繰り返しプレイ」などてんで叶わない夢なのですから。
 まして、毎日取るものである昼食、それを一緒にとる相手をその都度自由に選んで良いというのは、つまり毎日昼食のたびに他の誰かを拒絶しなければならないということでもあります。たとえそのことに心が痛んで、他の誰かと一緒に昼食を取ったものなら、今までずっと一緒に昼食を取り続けていた友だちは、そのことについて決してうれしく思うはずはないだろうし、「今回だけ?それともこれからずっと?」と、余計な不安を抱えることにもなりかねません。
 何かを得る機会を常に与えられ続けるということは、常に他のすべてを得られない機会を与えられ続けるということでもあり、それがこと人間関係のことであれば、その窮屈さは意外なほど深刻で痛ましいものとなるでしょう。
 ましてや、「昼食を自由な席で食べていい、ただし独りぼっちになる人が出ないように」というルール、これは一見思いやりにあふれたやさしい提案のようで、しかし本当の意味での自由を生徒から奪っています。それは、独りで食べることを許していないということです。
 必ず誰かと一緒に昼食を食べなければならないということの、どこに自由があるというのでしょう。昼食は独りで食べるものだという認識があるから、誰かと一緒に食べるという楽しみがわかるのだし、独りで食べてもいいという心構えがあるから、いろんなクラスメイトと一緒に取ってみようという風に思えるのではないでしょうか。
 自由とは、まずひとりでいられることから始めて欲しい。決して失われないものをわきまえた人から与え始めて欲しいのです。わがままな話ですけどね。
 僕だったら、そうですね、班という枠組みは崩さずに、昼食に際して特段何も言わないと思いますね。昼食時間になれば班ごとに机を寄せるようにさせるけれども、椅子だけ持って他の班に参加するというような生徒の行動を、ことさら注意したりはしない。ただし班長は移動しちゃダメとかね。
 「班ごとで食べなきゃダメ」とか「自由に食べていいよ」とかわざわざ言うのではなく、むしろ知らんぷりするといったルーズさが、人間関係においては思わぬ潤滑油としてうまく働いてくれるものです。これは別に教室に限ったことではないけれども。
 付き合わなければならない相手と付き合うのが接待で、付き合おうが付き合わなかろうがどうでもいい相手と付き合うからこそ楽しい。ましてそのルーズさを心得ていればこそ、接待であってもそれなりに楽しめたりするから、人間関係は因果で語れません。
 しかし、僕が中学の頃も弁当持参だったけども、そもそも誰かと一緒にワイワイ食べたというような記憶はないなあ。ライスとミルクはあわないということをさんざん思い知らされただけの、なんともむなしい3年間でした。

 おすそ分けは近所付き合いを大切にする習慣だと私も思いますが、先日、悲しい思いをしました。
 友人がリンゴを送ってくれたので、近所の人に持って行ったところ、「私のところはお返しするものが何もありません。リンゴは嫌いではありませんが、心苦しくていただけません」と断られました。
 私は「お返しなど結構です。そんなつもりはありません」と言いましたが、「近所で顔を見るたび悪いような気がするので、もらわない方がさっぱりしていい」とのことでした。昔からの習慣が少しずつ消えていくようで残念です。(読売新聞)

 タダより高いものはなく、何のお礼でもないおすそ分けとやらのお返しを考えさせられる自由ほど、窮屈なものはありません。
 過大であれば相手は申し訳なく思うだろうから、それこそ申し訳ないし、過小であれば相手は不愉快に思うだろうから、まったく困るばっかりの話で。理不尽なことながら、そんなモン寄越しやがった相手が憎たらしくなってしまうよりかは、多少失礼ではあってもおすそ分けを最初から断ってしまったほうがよっぽどマシだというのも、わからない話ではありません。
 わざわざお店に出向いて選りすぐって、決して安くない代金で購入した品を「つまらないものですが」と言って渡さなければならない、へんてこな儀式の関係にある相手から、「お返しなど結構です。そんなつもりはありません」と言われたところで、だれがその言葉をそのままの意味で受け取るものでしょうか。
 かくして人間関係上の自由ほど難儀なものはなく、考えてみれば、自由恋愛。なんで自由なんだよ、せめて5人くらいのヒロインから選べるようなシステムだったらいいのにっ!
 悩ましい、ああ悩ましい、悩ましい。