ニュータイプとしての哲学

 妙な気分になったのは、細胞培養の実験をしていた時です。
 顕微鏡でサルの腎臓の細胞を見ながら、何気なくシャトルの窓に目をやると、顕微鏡でのぞいているのと同じような模様が見えました。地球の山脈や砂漠、湖などです。
 細胞という極めて小さいものと、地球という大きいもの、それがどこかでつながっている。普段地球で見ているものは、宇宙を見ると、全体の一部でしかない。だが、その全体もまた、全体の一部でしかない……。宇宙そして生命について考えてみたい、と思いました。(2005.10.25付読売新聞)

 「起動新世紀ガンダムX」に登場する宇宙革命軍の指導者ザイデル・ラッソは、宇宙に住む者はやがてすべて革新するというニュータイプ主義をかかげ、それゆえ実際に特殊能力を持つニュータイプ、ティファ・アディールを否定しようとします。ニュータイプ主義とは結局のところ、市民を思想的に統制するための1手段でしかなかったわけですが。
 でも宇宙に出ることが叶えば、なにか革新的に視野が広くなるような気は確かにします。スケールは異なりますが、外国旅行を経験すると視野が広がるとはよく言われることだし、「銀河英雄伝説」ユリアン・ミンツがフェザーンに派遣されるにあたって、ヤン・ウェンリーは「彼らの正義と私たちの正義との差を目のあたりに見ることができるとしたら、それは、たぶんお前にとってマイナスにはならないはず」と話していました。
 年間に1千万人以上の日本人が海外に渡航する今日、日本人だけでなく世界中のたくさんの人が外国旅行を経験していることでしょう。視野が広くなったはずの人間がそれだけいるというのに、しかしテロや紛争は絶えるどころかますます広がっているといわざるを得ません。
 きっと、人々が宇宙を旅行するようになったり、惑星かコロニーか住むようになったとしても、個人レベルの予感として、テロや紛争はなくならないだろうし、それどころか新たな戦争の舞台を耕すことになるだけなのかもしれません。宇宙に進出すること自体、国家間の争いという一面があるのだし。
―顕微鏡で細胞を見る。
―地上から世界を見る。
―宇宙から地球を見る。
 見上げると宇宙は果てしなく、僕らは永遠にすべてを視野に収めることはできないでしょう。たとえそれができたからといって、人間として直ちに進化するなど卑しい妄想に過ぎません。
 しかし、宇宙に進出することで人々は自動的に革新するといったいかにも都合の良いニュータイプ主義が、まったくのでたらめかといえば、あながちそうだとも思えなくて。それが思想統制の手段、新興宗教の偶像と化していては話にならないけれど。
 見るもの聞くもの、そして体験したことは、内面とそして思想へ昇華させる機会・原料となり、自分という哲学を研さんしていく過程が、人となりとして構成されゆくものだから。宇宙というものはその素材として、僕たちの何かを、ものすごく変えてしまい得るんじゃないかと、子どもっぽい憧れをふんだんに含んで想像してしまうのを、抑えられないのです。