井上陽水は腐ってる

 芸能ニュースで盛り上がっている倖田來未の「35歳を過ぎるとお母さんの羊水が腐ってくる」発言について。
 僕は、羊水は羊水でも井上陽水のことだとすぐ訂正すれば事なきを得たと思うんですよね。つまりテキストに起こしてみると、「35歳を過ぎるとお母さんの(井上)陽水(観)が腐ってくる(だがそれがいい)」という文脈なんだと。「なるほど確かに」「そういう意味では井上陽水は腐ってるよね」と、きっと誰もが納得するに違いありません。そんなわけありません。
 とあるワイドショーでとあるコメンテーターが、「あまりこの話題を取り上げると、世間の人たちの間違った認識を強めることになるだけなので、止めた方がいい」と発言していましたが、それならまず貴方がこの問題に関してテレビで発言しないことから始めろよと、思ったり思わなかったり。
 今回の発言内容は、もう議論にもならない、どうしようもなく救いがたいもので、何もテレビでなくたって、日常生活においてさえまったく言ってはならない事柄です。たとえ親しい間柄であっても、そんなことを言おうものなら軽蔑されてしかるべき。冗談であれば不謹慎すぎるし、本気であればもう二度と会うことはないでしょう。
 その程度の、ひとりの人間として備えているべき最低限の見識すらわきまえていなかった倖田來未という女性の、人格そのものが今回疑われているのだから、謝罪会見を行ってどうなるというものでもありません。どの面下げてテレビに出やがるというのか。それは滑稽を通り越してシュールです。
 そんな見識のもとで作られていたということが今回判明した、恋だの愛だのいう今風のロマンティックな彼女の楽曲を、今後ファンの人たちは今までと同じように好意的に鑑賞することができるものなのかなと、今後の彼女の活動がとても楽しみです。どうせなら「35歳を過ぎるとお母さんの羊水が腐ってくる」という彼女の見識に基づいたグロテスクな楽曲を今後は作っていって欲しいし、それは人間の暗黒面を突いた先鋭的な音楽性を切り拓くきっかけとなるかもしれません。
 ま、聞くことはないでしょうけどね。
 この問題に関して妙に適切な分析をしていたのは、「ラジかるッ」の中山秀征です。
 氏は今回の騒動について、その発言内容いかんについてはあえて触れず、ラジオ番組での失言は、かつてであればその番組の聴取者しか知りえないし、番組に直接苦情が寄せられ、その番組内で謝ればまず済んでいた。けれど今は、ラジオ番組であってもネットを通じて誰もが内容を知ることができる、その影響は番組と聴取者という関係をはるかに越えて社会全体へと広がってしまいうるわけで、もはや番組スタッフ・出演者として収拾のつけようがないという点をまず指摘しました。
 何しろ大臣まで「不適切だ」と苦言を呈しているくらいですからね、たかが深夜ラジオ番組に。
 そして、ラジオ番組特有の空気としてある、ざっくばらんな雰囲気の中、だんだん盛り上がってきたという高揚感、これを損なわないために何か強いこと・面白いことを言わなくちゃ!といったある種のプレッシャー・気負いから、普段であれば考えられないようなことを話してしまうということもありうるということ。
 そのうえで、この番組はそもそも録音なのだから、「羊水が腐る」のくだりは編集の段階でカットされてしかるべき内容だったのに、そのまま放送されてしまったことが最大の問題なのだと指摘し、倖田來未個人に対しては少し同情的でした。
 カットされる、モザイクをかけてくれると信じられるから、出演者はぶっちゃけた話、本音を言える。それはどぎつくて放送されることはないけれども、モザイクがかかるくらいフランクな雰囲気なんだということが視聴者なり、聴取者に伝わるということは、バラエティー番組としてとても重要なこと。だからこそ、番組スタッフと出演者の間には信頼関係がなければダメなんだという主張に説得力があるのは、企画自体きわどすぎる深夜番組をいくつもこなしてきた中山秀征であればこそでしょう。
 確かに今回の騒動でまず責めを負うべきは番組プロデューサーであり、ニッポン放送は即刻関係者を処分したようですが。彼らが編集段階でカットしなかったのは、単純なミスではなく、「あの倖田來未がとんでもねえ発言したぞ。これは面白くなりそうだぜ」みたいないけすかない思惑ゆえだとすれば(おそらくそうなんでしょう)、倖田來未はむしろ被害者といえるのかもしれません。
 誰もが「言ってはならないこと」をたくさん抱えて生きている。コミュニケーションとは、互いに「言ってはならないことを言わない」ことから始まるものだといってもあながち間違いではないでしょう。それは芸能人であれ、一般人であれ同じこと。
 それなのに、「言ってはならないことだけど言わなくちゃ仕事が上手くいかない」と思い至っても仕方がないような状況に追い込まれもする、芸能人の過酷な境遇を僕らはかわいそうだと思ってあげるべきなのでしょうか。
 しかし、時代とスタッフに貶められたと論評してみたところで、事実として、倖田來未の発言によって傷ついてしまった女性は確かにいる。その内容が内容だけに、もはや倖田來未本人がひたすら謝るしか術がないだろうことはわかっているのに、「謝って済むものかっ!」と切り捨てるくらいしか外野が採るべきリアクションはないんじゃないでしょうかねえ。
 男は女を守るべきもの、その女を攻撃する相手が当の女だとしても、男は容易に分別をつけることができない生き物なのでした。
 ――今日、妹が一ヶ月検診でお世話になった産科医院に行ってきました。予想どおり、診察中赤ちゃんは泣いてばかりだったそうです。
 羊水が腐るだのといった類の、妊娠・出産にまつわる科学的根拠のない"ならわし"が、今日でさえ各地にあまた存在し、実際に生れ落ちてきた赤子を抱いてみれば、どうということはなかったと振り返り、あるいはこれは奇跡じゃ重畳じゃといっそう感激できるんだろうけど。僕らはたいてい想像力を欠いて過ごしているのに、ときおり異様なまでに想像力を暴走させてしまったりで。自分の中でも、また他人との間においてもよく食い違うんです、やっかいなことに。
 赤ちゃんという存在に実際に手で触れて、抱き上げてみれば、余計なことを考えている余裕なんてありはしないというのにね。