「よく掃除をしてくれたで賞」

 ある冬の休日、暮れかけたころに私の携帯電話が鳴った。担任している4年生のB子からだった。
 「塾の帰りに、道ばたのゴミを拾っていたら、畑仕事をしているおばさんが、『えらいねえ。これ、家族で食べて』と野菜をくれました。とてもうれしくて、家族のみんなに話すと、とても喜んでくれました」。弾んだその声を聞いて、私もうれしくなった。
 B子は、登校中にゴミを拾ってきてくれるが、休みの日もゴミを拾っているとは知らなかった。私は、何だか自宅でパソコンに向かっている自分が恥かしくなり、近くの駅にゴミを拾いに出かけた。(2/18付読売新聞)

 ゴミ拾いというものは通常、人の目を意識してする行為ではありません。そして、人間の本質というものはえてして、人目のつかないところで何をしているかということで判明してしまうことが多い。
 そういう意味で、ひとりでいるときなど、誰に言われるでもなくごく自然にゴミを拾うことのできる人間は、ほぼ無条件で素晴らしいと僕は思います。逆に、人目のつかないところでゴミを捨てる人間は、卑怯で、最低だと断定できるかどうかは難しいところ、としておきましょうか。
 僕が小学生のころの話。
 校内清掃月間といったかな、といっても全校生徒に「掃除をきちんとしましょう」と先生たちが呼びかけていたというだけなんですけど。その期間が終わって間もなくしてから、僕は表彰されたんですね。なぜか。というより表彰があるということすらしらなかった。
 「よく掃除をしてくれたで賞」
 今思うとあんまりなタイトルだし、賞状1枚もらっただけなんですが、ものすごくうれしかったというのをよく覚えています。いつだったか、全国学力テストでたまたまいい成績をおさめたことがあって、母親の手前すごくうれしいような気がしたけれど、そんなものより僕にはこの賞のほうが全然うれしかった。少なくとも今でも印象深く覚えているのはこの「よく掃除をしてくれたで賞」のほうです。
 「僕のことを見てくれていたんだ」、たったそれだけの、これほどうれしいことはありません。
 誰も見てくれていない、誰にも評価されないだろうけど、それでも自らが善しとし取り組んだ事柄を、思いがけず第三者が見てくれていたとき、好意的に評価してくれたということを知ったとき、人は底抜けに感激してしまうものます。世の中捨てたものじゃないというか。
 他人を意識せず自然に為したこと、それは自分の本質を現すということ。ゆえに見せびらかそうとした時点で本質ではなくなり、だから不用意に本質を見せないように、それでいて極々一部の誰かには見え透けるようにと巧みに偽装されたものが人格と呼びうるのならば、僕らは無意識の内から極々一部の誰かにこっそりと見ていて欲しくて、極々一部の誰かにこっそりと見破って欲しいんです。
 「キミはこういう人間なんだね」と。
 その内容が善いことか、悪いことかはむしろ関係ありません。見てくれていたこと、評価してくれたことがいちばん大事。だから本来であれば、褒めることも、注意することも、他に誰もいないところでひとりひとりに対して行うほうがよい。教室で他のみんなが見ているところで褒めても、注意しても、本質は損なわれてしまうと僕は思うんです。
 貴方が誰かを本当に応援したいと思ったら、誰も知らないいいところを見つけて、誰も見てないところで、こっそりと褒めてあげればいい。正当な事由があるときなら貶したっていい。「貴方のことをいつも気にかけています」という態度を相手にれんらくすることが、貴方の本質を受け入れますという何より大切な布告になるのですから。