今の彼女は別のぞうさんが好きなんだろうか

 今年1月、都内のイベント会場を訪れると、舞台には黒いワンピース姿の少女(8)が立っていた。「小学校の給食は何が好き?」「大人になったら何になりたいの?」。司会者からの質問に、少女は恥らいながら「女優さんになりたい」などと答えた。客席には男女10人ほどが座り、舞台を見つめる。
 このイベントは、少女のDVD発売を記念した撮影会。DVD購入者だけが参加できる。撮影タイムになると、少女は母親(31)が手作りしたビキニに衣装を着替えた。ポーズをとって、視線をカメラに向け、にっこり。少女にプレゼントを渡す男性もいた。舞台の袖には母親がビデオを回しながら見守っていた。(略)
 見知らぬ男性に水着姿を撮影されることに抵抗はないのだろうか。少女は「楽しい」と屈託がない。母親も「鏡の前でいろいろな服を着てポーズをとったりするのが大好きな子なので。ビキニなら赤ちゃんのころから着ていますし、Tバック水着のような過激な格好はさせませんから大丈夫」と話す。(略)
 「1990年代にドラマや音楽でローティーンが活躍したことで、アイドルの低年齢化が進んだ。また、メディアの発達などにより、アイドルになれるチャンスが広がりアイドル"万民化"の時代になった」。
 一方で女子生徒の着用したブルマーなどを売買する90年代のブルセラブームがきっかけとなって、「ここ数年、DVD業界を中心にジュニアアイドルの低年齢化、過激化が進んでいる」と言う。小学生や中学生に水着を着せた写真集やDVDがあり、4歳児が登場するものも。タレント事務所や出版社の中には、児童福祉法違反などで逮捕者を出したところもある。(略)
 「撮影会はいわゆる芸能活動とは全く違う。親はもっと現実を知るべきだ」
 アイドルになりたい――。多くの子どもが思い描く夢の裏で、性的な対象として大人に消費される子どもの現実が横たわっている。(2/22付読売新聞)

 某引越し業者のCMで、「きりんさんが好きです。でもぞうさんのほうがもっと好きです」と電話口であどけなく話していた幼女はすでに女子高生になっているんですが、それがいわゆるガングロのひどい形相、一目見てこれじゃあ親でなくとも詐欺で訴えたいものだと笑い話に興じていたものだけれど。「現実なんてそんなものだ」と、どこかで納得してもいました。
 幼い女の子は素直で純粋で本当にかわいらしい。これはロリコンであろうと人の親だろうと変わらない印象でしょう。けれど成長すればそうでなくなるということも承知しています。幼い子は誰もがご近所のアイドルであり、その偶像性は年を経るごとに剥がれ、あるいは人間性として転化してゆくと捉えることもできます。
 始めはモノのようにかわいがり、やがてかわいくなくなるから、ヒトとして対話するしかなくなる。それが親としての成長と呼びうるやわらかい着地点なのかもしれません。
 ここに二次元上の美少女ヒロイン(18歳)がいるとします。彼女はとても素直で純粋で本当にかわいらしい。しかし、現実の同年齢の女の子に目を向けると全く、180度違うということが既に判明しています。彼女たちは徹底してひねくれて、汚泥にあえて足を突っ込み、本当に憎たらしい。
 現実の彼女たちが夜の校舎の窓ガラスのように僕らの夢を壊して回るほど、二次元上の美少女ヒロイン(18歳)の価値はいやがおうにも増し、信奉対象(神)に限りなく近づいてゆくほどに、現実の彼女たちを見向きもしなくなり、ついには嫌悪の対象にすらなっていることでしょう。
 ここに二次元上の美幼女ヒロイン(6歳)がいるとします。彼女はとても素直で純粋で本当にかわいらしい。そして現実の同年齢の女の子に目を向けても全く、そのとおりだったとしたら、少なくともそういう認識をもったとしたら、いったいどういうことになってしまうんだろうかと、僕はときおり考えます。
 別に二次元じゃなくたっていいじゃないか、と思ってしまうのを断じて堰き止められる、ガングロ女子高生に対する嫌悪感ほどに強烈な圧力を、どこからか調達しうるものなのだろうかと、思ってしまうのです。
 ましてや二次元上の美少女ヒロインは、18歳とはいっても普段の言動は6歳程度の幼女とたいして変わらないといっても決して暴言ではなく、なのに恋愛や人生に関する薀蓄にだけ長けた奇妙な存在。そのちぐはぐさを覆い隠さんとする意図ゆえか、彼女の知性はもっぱら物語進行の動機としてのみ動員され、彼女の性格の大部分を形成し、彼女を慕うユーザーの愛着を多く集める点は、普段の言動であるところの素直さ、純粋さ、独特の無邪気さを総合したかわいらしさなのです。
 二次元世界はそういう意味で、幼女性の魅力をユーザーに教え、なおかつ女の子の理想像(アイドル)として暗に提示しさえしています。そしてユーザーは、テレビ画面やディスプレイを真剣に見つめていれば親として成長するというわけでもあるまいに、なんとなくいい親になったような気分に陥り、何も知らない幼女に人生や恋愛について教えてあげるという態度を通して、幼女をモノとして永続的に消費していくのです。
 名前や人格の真っ白な、幼くある期間の性それそのものを。今まさに茹で始めたばかりの卵の、半熟になろうかどうかというタイミングで殻と白身を無造作に突き破り黄身をほじくり食う――。それがロリコンの本性。それが悪いことかすごく悪いことかは僕に判断することはできません。何しろ僕もその一味ですから。
 女の子の成長はかつてに比べてグンと早まり、アメリカの少女は8歳で巨乳になるそうですが、ここ日本でもほとんどの女の子は小学生のうちに初潮を迎えるのだそうです。身体の成長は必然的に心の成長も促すもの。まして高度に情報化されたこの社会では、精神面において、多分に偏りがちだろうことは想像に難くないけれども、間違いなく彼女たちの早熟に強く作用していることでしょう。
 精神といっても、それは語義どおりの大上段なものではなく、表面的な"大人びる"という程度の意味ですが、それでも幼女としての"消費"期限は確実に短くなっているのです。
 しかも、少しでも熟してしまってはもう手遅れ。ガングロはガンgでもガnですら手の施しようがありません。それならば、まだ早いかもしれないけど生でいいや、ということになり、生でもいける!ということにもなる(生ってなんだよ、ビールかよw)。性愛対象の低年齢化とはそういうことでしょう。 
 ようするに、僕らはこの"危うさ"に気づかなければいけません。
 「オタクだからこそ女の子をまもります」という主張は、「女の子」をいっしょくたに論じている点で本質を見誤っています。確かに女の子全てという人もいるかもしませんが、別の人にとっては高校生以外、小学生高学年以外、さらには幼稚園児以外であるかもしれません。
 まあ、僕がここで指向しているのは、「守る」ではなく「無関心でいられる」なんですが。
 あえていえば、自らが空想と現実の、二次元と三次元の交錯する地点があるとすればそれを見極め、自覚し、実効的な規制を講じることが求められます。たとえば街中で見かけた幼女を5秒以上見つめない、とかw。
 ところで、「BabyPrincess」とそれにインスパイアされたネット上のムーブメントにいまいち乗り切れないなあと僕は感じているんですが、それはあの濃厚なあざとさ以外に要因があるような気がしてなりません。
 こわいよなあ、我がことながら。