行為を捉えて人を捉えず

 べっ、別にラグナロクオンラインのパッチサーバーに全然つながらないからブログの更新でも済ましとくかっていうわけじゃないんだからねっ。

 「映画のワンシーンのような光景を見て感動したよ」(略)
 信号待ちする群集の中で、男性がたばこを吸っていたそうだ。煙は風にあおられて周囲に広がり、手で払いのける人がいれば、せき込む人もいた。その後、男性は、火をつけたまま、足もとにたばこをポイ捨てした。
 そのとき、そばにいた粋な和服の女性が素早くバッグからティッシュを取り出し、その吸い殻を包んだ。
 女性は男性に近づき、「落とされましたよ」と言って包みを渡し、立ち去っていったという。さりげなく勇気ある振る舞いで、息子とともに脱帽した。(読売新聞)

 かっこいいですよねー。惚れてしまいますよね、こういう女性が日本にもいるんだなあ。
 見ず知らずの人に注意するということ自体とても勇気がいることで、たいていの人は、なけなしの勇気をかき集めるのに四苦八苦してしまい、どう注意するかという方法論にまで考えが及ばないものなのに。なおかつ相手を面食らわしてやるとは、まったく大した器量です。
 注意されるほうにしても、面食らわされるというのはたぶん救われることだと思うんですよ。ふつうに言葉で注意されると、プライドとか面子が出てくるからどうしても素直に受け取れない。反抗したくなっちゃうし、感情を制御しきれず逆ぎれということにもなりかねません。
 だけど、面食らわされればプライドとか面子が無効になります。だから素直に受け取らざるを得ないし、素直に受け取ることができる。心の両面性のつじつまがあうんですね。
 ところで。とあるニュース番組で、歩行喫煙禁止地域で取り締まりにあたっている係員のおじさんを取り上げていました。各地の都市部で制定され始めてまだ間もない条例ですから、注意しても素直に従ってくれず、怒鳴られたり暴行されたりといったトラブルが多発しているなかで、そのおじさんはほとんどそういう目に遭ったことがないというんですね。
 それはどうしてなのか、おじさんの振る舞いを詳しく分析してみると、おじさんは決して"注意"しているわけではなかったんです。この場所で煙草を吸いながら歩くのは悪いことで、だからあんたダメでしょというような高圧的・指導的態度が全然感じられないんですよ。
 当該地域は歩行喫煙禁止地域であること、違反すると罰金が課せられること、その罰金の納め方や不服がある場合の連絡先などを、相手の目をしっかり見ながら、とても丁寧な口調で、手振りを交えながらわかりやすく説明している。それは決して事務的の範疇を出るものではないけれど、同時にとても誠実なんですね。
 たとえば、初めて利用する図書館で係りの方に本の借り方について説明を受けているような。その説明に従わなかったり怒鳴ったりする人はまさかいませんよね。「2週間以内に返却ポストに入れればいいんですね」と応答するのと同じように、「○日以内に振り込めばいいんですね」と応答することが、できてしまう。
 相手がプライドや面子を持ち出す契機を巧みに回避し、素直でいられるようコミュニケーションを取るというスキルがあるんだということを僕は知りました。まあ実践するのはとても無理でしょうけどね。
 ――タバコのポイ捨ては悪いこと、悪いことを注意しなければならない、などと思ってしまうから勇気の必要量を倍増させてしまうのであって。禁止されていることだからといって、すぐさま悪いことだと安易に結びつけてよいものではなく、それでもあまりに悪いことだとしても、それを個人レベルの正義を持ち出すでなく、ただ平凡に、あるべき状態へと修正できればそれでよいのです。
 どれほどの理があろうと、正義というものはやはり、押しつけられるのは愉快じゃないですから。
 たばこの吸い殻が地面に捨ててあるのは、あるべき状態じゃないし、持ち主の手から物が離れるというのもまた、あるべき状態じゃない。歩行喫煙禁止地域でたばこを吸うと罰金が科せられるということを知らない人がいるのは、あるべき状態ではありません。だから、とりあえず修正しよう、とりあえず自分が。
 正義とは、相手に直接及ぼす行為のことではなく、あるべき状態へと主体的に働きかけていく間接的な心持ちのことだと定義すると、より好ましいものに感じられますよね。
 「罪を憎んで人を憎まず」というよりも、「行為を捉えて人を捉えず」とでもいましょうか。とはいえ、実際には態度云々という話になってくるから、それは相手がどう感じるかという問題であり、結局どうにもならないじゃないかということになってくるんだけども。