インターネット、神秘主義と免許制

 いじめる側は姿を現さないまま、相手を精神的に追いつめる。(携帯電話などの)情報機器を使ったいじめは、海外でも問題になっている。(略)
 「いじめは昔からあった」とする反論があった。だが、特定の「やんちゃ坊主」による昔のいじめと違い、今のいじめはクラス全員が何らかの形で巻き込まれる「集団の病理」で、見えにくく、歯止めもかかりにくい構造のあることが明らかになった。「いじめはどの子にも起こる」とされた。(略)
 そのいじめの特質を「ネットいじめ」はすべて、より極端な形で持っている。不特定多数が参加するネット巨大掲示板と違い、裏サイトは自分と同じ集団の人を標的にする。閉鎖的だが、見えにくい。匿名で中傷を書き込むのは誰でもできるから、どの子も被害者、加害者になる可能性がある。
 情報化社会は、いじめの純粋培養も招いてしまったと言えそうだ。
 県教委のリーフレットは、裏サイトの問題箇所を保存し、削除を要請するなどの対策を示した。子供に携帯を安易に与えないことも求めている。だが、そもそも、子どもの携帯に通話以外の機能が必要不可欠なのだろうか。(読売新聞)

 メールやインターネットは、僕が児童だったころにはないものだったから、正直なところ、それらが児童生徒に与える影響について想像が及びません。考えることはできるけれども、「自分だったらどうか」という立脚点が見出せないから、どうしても議論が空疎になってしまうんです。
 僕がインターネットに初めて触れたのは、大学の講義でした。
 それ以前とか、それ以後の経験とかと比較することが不可能なので何ともいえませんが、僕はインターネットは、大学生などの、自主的に勉強することを課せられ、むしろ望んだとき、必要に迫られて初めて触れられるべきものなんじゃないかと思います。
 インターネットの可能性を過小に見積もるつもりはありません、あれはとても素晴らしいものです。けれど、あくまで目的があって、それを果たすための道具の一つであるべきなのです。使う側がきっちり枠を決めなければ、負け続けるパチンコのように、損失が積み上がるばかり。
 携帯電話の機能のひとつとしてインターネットを利用するというようなことは、十分な読解能力や批判能力も備わっていない時分にポストに入っていた新興宗教のパンフレットを読むことで起こりうる危険性を思わせます。
 ちょっと前の、無修正エロビデオの通販案内などの有害チラシが大量に入れられていたポストを、子どもが開けるようなものですよ。しかも電話1本即お届けですってよ……。
 僕にとってインターネットとは、ダイヤル音という詠唱、モデムの"カチッ"という鐘の音、"ピーガーツーツー"というオルガンの響きによって厳かに導かれる新世界という、神秘的な心構えを要する世界でした。
 また、よく繋がらなくなったし、従量課金だから必要なことしかできなかった。心理的にもハードウェアにも予め枠が用意されていたんですね。
 それが今ではパソコンを起動すれば自動的にインターネットにつながっている、携帯電話でさえ時間を気にせずインターネットをすることができる。本来およそ簡単ではない世界にカンタンに入れてしまうというのは、やはりよくないですよ。ありがたみがないのがいけない。
 インターネットとは、間違っても君の手に負えるような簡単な世界ではないんだということを理解させるいちばん手っ取り早い方法は、いったん取り上げて、しかるべき儀式の元で与えること。
 車を運転するのに運転免許が必要で、取得できるのは18歳からという例にならって、インターネットの利用も免許制にして、18歳以上が講習を受けることで得られるシステムにするというのも、決して悪くない考えだと思いますね。
 もちろん、助手席に座る限りにおいては運転免許は必要ないように、インターネットも、学校の授業であったり、親の管理下であれば利用できます。ただ、親の子に対する管理能力ほど期待できないものはなくて、インターネット利用を規制しても、親の位置づけに配慮する限り、どこまでも有名無実化してしまうんでしょうね。