直せるならそれに越したことはない

 母親が、孫にメリーを買ってあげたんです。
 なんでも、僕が赤ちゃんだったときにお祖父ちゃんが買ってくれたそうで、「親は孫にメリーをプレゼントするものだ」と、先日わざわざ買いに付き合わされたんですよね。
 あれでもない、これでもないと小一時間……。
 それが、プレゼントした1週間後に再び訪ねてみたら、動かなくなったという。どうせ電池切れだろうと新しいものに交換してみたけれど、どうしても動かない。
 オルゴールが鳴るだけの機械で、電池を交換しても直らないとなるとあっさりお手上げで。仕方なくメリーの入っていた箱に記載されていたフリーダイヤルに電話しました。
 症状を話すと、「購入してから1週間しか経っていないので、初期不良ということも考えられます。ですので新品と交換させていただきますね」と言う。それならそれで構わないのだけれど、何か違和感を感じたんですね。

 電気科3年の生徒が毎年、学校近くの幼稚園や保育園から壊れたおもちゃを預かり、修理するボランティア活動を行っている。電気系統の故障が多く、生徒にとっては1、2年で身につけた知識や技術を生かせる場。修理して喜んでくれる園児らと直接、触れ合う機会にもなっている。(略)
 「『直してくれたおもちゃでまた遊びたい』と言って喜んでくれる。とてもやりがいを感じる」(略)
 「人の役に立つ実感を体験できる貴重な授業。これから続けたい」。(読売新聞神奈川版)

 僕が幼かった頃、その名の通り「おもちゃの病院」があったんですね。何かの店に併設されていた、もうほとんど記憶に残ってないのだけれど。動かなくなったラジコンとか、よく持って行って直してもらったものでした。
 それで、おもちゃは直してもらうものという意識がまだ残っているのかな、1週間とはいえちゃんと動いていたメリーを、初期不良扱いにして新品と交換するということに妙な罪悪感を覚えてしまったのです。それがいちばん手っ取り早いというのはわかってるんですが、もったいないとは微妙に違う、申し訳ないというか、つまり、理屈じゃなく本心が「直したい」と思っているんですね。
 フリーダイヤルで新品交換の手配をして、"故障"品を返送するための梱包セット(着払い)まで送ってくれるという。その手続きを終えて電話をいったん切った後、けれどどうしても諦めがつかない。とはいえ分解しようにもネジに合うドライバーはなく、開けたところで電気系統をハンダ付けするだなんてできっこないから、電池をしつこく入れ替えてみるくらいしかしようがなくて。
 それで、気まぐれで古い電池と新しい電池を組み合わせて入れたところ、なんと鳴りだしたんですよ。メリーが回り始めたんです。
 こんなの修理だなんてとても言えないけれど、直ったときのうれしさは身に染みました。なるほど、おもちゃを直すボランティア活動が教育になるというのもわかるなあ。何しろ動き出したとたん、そのメリーに夢中になり始める赤ちゃんがここにいるんだもの。ダイレクトにやりがいを感じるんですよね。
 すぐさまさっきのフリーダイヤルに電話して、新品交換の手続きをキャンセルしました。
 直せるならそれに越したことはないと思うんですよ、おもちゃにしろ、夫婦仲にしろね。
 突拍子もないと貴方は言うかもしれない、けれど僕は思うね。離婚率が近年上昇しているのは、おもちゃが複雑になって容易に直しがたくなっていること、あるいはそう思われていることと無関係ではないような気がするのです。
 結婚相手というものが新品交換できるジャンルなのかどうか、僕にはわかりかねますがね。上野千鶴子先生は、「結婚とは女性にとって生活のための必需品というより、嗜好品に変わったのではないか」と仰っておられて、そういうことなら手っ取り早く"交換"してしまえるものなのかもしれませんが。
 いくらおもちゃの病院があることを知っていても、僕はそこにファミコンファミコンソフトを持ち込むことはありませんでした。おもちゃが直るものではないとという認識は、テレビゲーム機の登場によって萌芽したのではないかと、ひそかににらんでいたりします。