もろいからこそ愛おしい、自費出版と同人誌

 我が家の書棚の隅に、著者名が「私」という一冊の本がある。奥付にこそ、3版と印刷されているが、この本、実は市中に一度も出回った実績がない。1版1冊、ワープロによる私の手作り本だからである。
 第1版は6年前、結婚する長女に記念品として贈ろうと作った。2版は4年前の二女結婚の折である。文筆が趣味の私は折々、家庭内の喜怒哀楽をつづってきた。それらをまとめ、自分で製本して、わが家を巣立つ娘たちに持たせたのだ。
 書棚の3版は夫婦二人の生活となった後のことまでつづっている。それぞれが世界でたった一冊の本だ。
 本を手作りするのは確かに困難だが、製作過程が実に楽しい。書店で販売しようという野心がなく、少部数でいいのなら、2か月も頑張れば誰にだって可能だと思う。みなさんもぜひ手作り本に挑戦されてはいかがだろう。(読売新聞)

 僕はこの投稿記事を読んで、自費出版というものについて考えさせられました。
 近年目立つという自費出版にまつわるトラブルについて、以前NHKの「クローズアップ現代」でとりあげられていたんですね。主に費用面のことや、どこの書店にいっても自分の本が置いてなかったという事例ですが。特に印象に残ったのは、自費出版に携わる編集者の巧みな話術です。
 「まるで情景が目に浮かぶようですね」
 「一見地味ながら深い魅力があります」
 「読む人が読めば高く評価されるでしょう」
 などといった、顧客をその気にさせるセンテンスがいくつも紹介されていたんですね。もちろんこうしてブログにテキストとして起こしてみると、胡散臭く感じること疑いないのですが、面と向かってそんな風に言われようものなら、うっかりその気になってしまいそうです。
 さすがに最近では見かけなくなったものの、ちょっと前までは「埋もれた原稿ありませんか」みたいな見出しの新聞広告をよく見かけたし、はてなダイアリーもよく自費出版の勧誘をメールでよこしてきますね。
 しかし、ビジネスとしての自費出版はなんともいやらしい商売です。
 日記などを毎日書き続けていれば、誰だって、自分は文筆が得意で他所に出しても決して恥かしいものではないとひそかな自信を抱きもするでしょう。けれど日記というものは元々他人の目に触れるものではないから、客観的に評価されることがないと同時に、自分ひとり得意げになっていればそれで済んでいた。
 それなのに、自費出版という形でひとつのメディアとして確立されたと宣伝し、連絡されれば、従前であれば本人完結の得意げがそれ(そこ)だけで済まなくなってしまった。そういう機会があるのなら、よい出版社と知り合えたら、などという期待された条件提示は、まさに当人が"綻び"を許しているということなんですね。
 誰にだってある虚栄心や、ひとりよがりの自信・プライド。さらには、日記や随筆などに書き込められた自身の内面を他人に理解してもらいたいという精神作用など、一見積極的な当人の見識と意思を、編集者はことさら認め、一方的に賞賛し、「あなたは価値がある」と独断しさえすれば思い通りの結果になるのですから。これほどラクな商売はありません。
 初めて評価されるということの目くるめく甘美さは、誰しも経験があるでしょう。
 これが訪問セールスで年寄りに羽毛布団を売りつけるとなると、話が違います。向こうはそもそも羽毛布団を買えればいいなどという見識も意思もないのですから。ゼロから売り込み、いい機会だと認識させ、良心的な会社であると思ってもらわなければなりません。
 自費出版の本当にいやらしいところは、実際に本として売り出された後です。
 依頼した方としては、少部数でもいいから多くの書店で客の目に触れるようにしてもらいたかったのに、まるで違っていた。しかし出版した方としては、実際に店頭に置いてもらえるかどうかは書店次第であり、当方としては注文があればすぐ発送できる体制を整えていると言い張ればいいだけのこと。
 依頼した方は、心理的にこれ以上強く抗議することができなくなります。「多くの書店で客の目に触れるようにして欲しい」という要求は、いみじくも虚栄心や根拠のなき自信・プライド、見ず知らずの他人に自分のことを理解して欲しいという浅ましい欲望をみずから認めることになる。それはとても恥かしいことだと、今さら覚醒した一般的な良識は己にそう指摘するでしょう。
 だから、「思っていたものとは多少違ったけれど、大した差ではない」「騒ぎ立てるほどのことじゃない」と自己欺瞞的に納得することで、実質的には泣き寝入り。当人の見識も、意思も、自己責任の元で鞘に収めざるをえないのです。そこに自費出版業という商売のいやらしさがあります。
 ――自費出版と、この記事にいう手作り本、そしてコミケなどに出展されている同人誌の違いについて思いを馳せてみる。
 不特定の誰かに読んでもらいたいという見識と意思がメディア化したものが、自費出版
 特定の当人に読んでもらいたいという見識と意思がメディア化したものが、手作り本。
 そして同人誌とは、特定の誰かに読んでもらいたいという見識と意思がメディア化したものだといえるのではないでしょうか。
 不特定とは、文字通り特定(限定)されない老若男女すべてという意味。特定とは、家族や親類であったり、同じ趣味・趣向を共有(限定)する者のこと。
 こうしてブログとしてテキストをインターネットに公開しているだけであれば、素人であっても不特定多数の誰かに向けて表現することができるけれども、それは無料であればこそ。出版物として、価格を付けて販売するとなれば、「不特定の誰か」というターゲッティングは素人には許されないんじゃないかと思うのですよ。
 許されないというより、自分の世界が維持できないというか。日本国内、あるいは世界に向けて出版される書物は、著者自身の描くあるいは主張する世界が強靭であり、ちょっとやそっとじゃ崩れないよう構築されているものだけれど、素人自身の世界とはそういう意味でとてももろい。
 しかしそのもろさゆえの愛おしさ、それを支える身近なセンスが理解される範囲を見誤ることがなければ、作品としてきっと素晴らしく在れると僕は思うんですね。もろいからダメだとは一概に言えない、身内だからこそ楽しめるものなんていくらでもあるし、それは決して劣っているわけではありません。
 しかしそれには、たくさんの書店に置いて欲しいとかいう願望を抑え、たとえば自治会や町内会のイベント、地元の商店街や学校などに紹介してもらえるよう依頼して、注文があったら当人が直接その人の家まで販売しにいくというような心構えが必要になってくるし、その心意気が円滑に実現するよういかにサポートしていくかということが、自費出版業界の倫理として求められてくるんだと思うのですよ。
 ようするに、自分の足で同人誌即売会を開催しようぜというわけです。自分の本はあくまで自分で売るんだという意識。その上での売り手と買い手が等しく参加する場ということなら、何も借り切った大型施設内のスペースでなくてもいいのです。
 もろいからこそ愛おしい。身内だからこそ評価できる。
 そういう意味では、長年書きためてきた随筆の自費出版するのも、気に入った作品のエロパロディ誌を出展するのも、根は同じなのかもしれませんね。